事故から復帰・休養へ
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2001年3月18日・博多スターレーン大会で試合中、ワイフビーターがエプロンから場外へのネックハンギングボムを狙った際、距離を誤りフロアに後頭部を強打、頭蓋骨骨折により、意識不明の重体にまで陥った。 療養期間を経て、同年12月2日横浜アリーナ大会(WEWハードコアタッグ&BJWタッグ両選手権試合・MEN'Sテイオー・関本大介(BJWタッグ王者組)vs 山川・金村(WEWハードコアタッグ王者組))で復帰するも、後遺症による左半身麻痺と椎間板ヘルニアの併発で、思うような試合展開が出来ないばかりか、日常生活にも影響を及ぼしていた。特に、椎間板ヘルニアに至っては、腰を打ってMRI検査で発見されるまで、一切気付かなかったという始末。医師からも「ナメたらエラいことになっていた」とまで言われた。 実際、山川はそのような状態にまで陥っても、デスマッチを最後までやりこなしていた時もあったが、あまりにも試合内容が不甲斐無く、リングネームを本名に強制変更されたり、「友人」と称するマスクマン「ミスター大日本」としてリングに上がったりとしているうちに、次第に容態が悪化。2004年9月26日の後楽園ホール大会を最後に 1年間の休養を取ることになった。 休養後は北海道に戻り、2004年12月1日、札幌・薄野でスナック「薄野プロレスYAMARYU」を開店。その傍ら、体調を戻すため、トレーニングに励み、大日本の札幌テイセンホール大会開催時には、団体のPR活動も行っていた。 1年経過の2005年10月14日、後楽園ホールを訪れたが、気持ちの整理がつかないこと、万全な体調ではないことなどを理由に、無期限へと切り替えることを発表した。 2006年5月5日・横浜赤レンガ大会前。6月以降の桂スタジオ大会を実験的な大会と位置付け、新たにデスマッチファイターを公募する記者会見で、盟友シャドウWXから、「(山川が)桂スタジオに出てくるのも一つの手ではないか」と発言。 これに奮起した山川は7月、札幌の店を週末のみの営業とし、横浜・鴨居の道場に泊まり込んでの練習を開始。 2006年9月23日、越谷・桂スタジオ大会にて、兄貴分と慕う金村キンタローをパートナーに迎え、同期の黒田哲広・シャドウWXを相手に再起戦を行い、復帰を宣言。しかし、椎間板ヘルニアは完治していないため、実況席で見ていた統括部長(当時)・登坂栄児からは、「頂点を目指すレスラーとしては『NO』だ」と厳しい評価が下った。 10月の後楽園ホール大会で、FMW軍として黒田・田中将斗と組んだ金村から、関本に一回田中と組んでみるように提案した際、「ダッサダサで、もうどうしようもないけど山川もおる!」と参加をほのめかし、これを受けて10月29日・札幌テイセンホールにて金村・黒田と組んで、関本・佐々木義人 (プロレスラー)・田中との6人タッグマッチに出場。この時、右肩手術のために長期欠場が決まっていた田中から、「お前も椎間板ヘルニアを治して第一線に戻れ」と提案された。 その後は北海道に戻り、大日本にはスポット参戦の形態を取ることとなる。2008年春からアジアンプロレスプロモーションの興行に参戦。9月、新木場1stRING大会(自身4年ぶりの東京での試合)に、12月には横浜文化体育館に参戦したが、どちらもデスマッチではなく、通常ルールでの試合となった。 2009年8月19日新木場1stRING大会・8人タッグトーナメントにおいて、7年振りの蛍光灯デスマッチを2試合行った。しかし、その後は試合内容の悪さから、2010年5月4日横浜文体・大日本15周年記念興行の参戦を最後に再び休養に入る。
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