中将姫説話とは? わかりやすく解説

中将姫説話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:33 UTC 版)

當麻寺」の記事における「中将姫説話」の解説

当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降中将姫伝説当麻曼荼羅の寺として知られるうになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土ありさま絵画彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来住する西方極楽浄土ありさま描いたものであり、唐の高僧善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅内容について別項当麻曼荼羅」を参照当麻曼荼羅原本については、中将姫という女性蓮の糸用い一夜織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性存在複数想定されている。 當麻寺本堂曼荼羅堂)に現存する曼荼羅掛けるための厨子奈良時代末期から平安時代初期制作で、当麻曼荼羅原本遅くともこの時代には當麻寺安置されていたとみられるしかしながら曼荼羅伝来由緒にかかわる資料平安時代記録には見当たらず曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代入ってからである。先述の『建久御巡礼記によれば当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩化身か)が一夜織り上げたものであり、それは天平宝字7年763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降父の名右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫伝承中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約する次のようなものである今は昔藤原鎌足曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫呼ばれるうになるこの美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし意地悪な継母育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪殺されかける。ところが、姫の殺害命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山というところに置き去りにしてきた。その後改心した父・豊成再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺出家しひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色蓮糸用い一夜にして織り上げたのが、名高い当麻曼荼羅」である。姫がから取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色染め上がった當麻寺近く石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身阿弥陀仏二十五菩薩現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったであった。 この話はよほど人気あったようで、世阿弥近松門左衛門らによって脚色され謡曲浄瑠璃歌舞伎題材ともなった

※この「中将姫説話」の解説は、「當麻寺」の解説の一部です。
「中将姫説話」を含む「當麻寺」の記事については、「當麻寺」の概要を参照ください。

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