中国・遠国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
現在の浜松市付近から駿河国府(静岡市)に至る経路は、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りを通っていたとみられている。 焼津市と静岡市との境の峠は日本坂と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠まれた難所だった。平安時代には、やや内陸寄りの宇津ノ谷峠を通る経路へ変更され、蔦の細道として文献に現れる。 駿河国府以東は、現在の東静岡駅前にある静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)直下付近を通った。 駿河国と相模国の国境の峠越えは、沼津から永倉駅(長泉町)を経て横走駅(御殿場)を経由し足柄峠を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われた。ただし富士山の延暦噴火(800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに三島から箱根カルデラを縦貫し小田原へ至る箱根路(箱根八里)が開かれ一時的に使われた。甲斐国府(山梨県笛吹市)へは横走駅から北上する分岐路(甲斐路)を通った。 相模国では国府津から大磯まで相模湾沿いに東へ進み、相模国中部(寒川町南西付近)で相模川を渡った。 771年以前はそこから鎌倉へ向かい、それ以東は次の上総国へ向かうために、三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入った。そこからは北上し、上総国府(現在の千葉県市原市)へ向かった。安房国府へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から下総国府(千葉県市川市)へも分岐路が伸びていた。 上総国府を経た後は引き続き北上し下総国荒海駅(成田市)で香取海を渡船し常陸国榎浦津駅(稲敷市柴崎)へ入り、常陸国府(茨城県石岡市)へ至った。 武蔵国は当初は歴史的経緯から東山道に属し、上野国新田駅・下野国足利駅から南下する支路である東山道武蔵路が武蔵国府(東京都府中市)まで伸び連絡した。 やがて、武蔵国はその南部の発展により、東海道との交通が活発となった。また東海道諸国から武蔵国東南部を経由し、下総国・常陸国(さらには陸奥国)へ向かう最短距離の交通路の重要度が増した。相模国中部からは現在の中原街道もしくは厚木街道(矢倉沢往還)に近い経路で武蔵国(橘樹郡・都筑郡)へ入り、多摩川を丸子の渡しで渡り、武蔵国荏原郡を経て豊島郡(現在の東京都心湾岸部)を通り、隅田の渡しで下総国葛飾郡へ入った。隅田川・利根川・渡良瀬川のデルタ地帯は各川を渡船し下総国府へ向かった。 これを受けて、771年に武蔵国は東海道へ移管された。東海道の経路は相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部から北上して武蔵国府に至り、そこから、もしくは上記のように相模国中部から東行し武蔵国へ入り、隅田の渡しで下総国へ入り、下総国府を経て上総国府へ向う経路となった。 805年には、上総国府を経由し北上する路線(香取道)を止め、下総国府から直接北上し、より最短距離で常陸国へ入る経路となった(相馬道)。途中の経路は柏市・我孫子市(布佐)・利根町を通り、そこから当時の常陸川・鬼怒川の香取海への河口付近を渡船し、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰・若柴付近(龍ケ崎市)から常陸国へ入った。 常陸国の先、勿来関の北側の、現在の福島県浜通り地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の宮城県に置かれた陸奥国府の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、棚倉構造線沿いの構造谷を北上し、奥州へ入る東山道へ合流する連絡路で接続された。 延喜式(平安中期)で東海道の駅を定めている。
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