中国ナショナルチーム時代
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1960年のナショナルチームのリーグ戦で容国団を3-0のストレートで破った。1961年の世界選手権北京大会の代表に容国団、徐寅生、李富栄、周蘭孫、張燮林とともに出場、団体決勝の日本戦ではトップで出場し星野展弥から勝利をあげ2-2となった5番で荻村伊智朗を破り優勝に大きく貢献した。シングルスでも準々決勝で荻村を破り優勝した。その後1963年のプラハ大会、1965年のリュブリャナ大会と3大会連続で男子シングルスで優勝した。3大会連続で決勝で李富栄を破り優勝したが1965年の大会について李富栄が負けてくれたのではといった指摘がされた。後に彼は当時上層部から指示があり中国人同士の試合になったときは外国選手に手の内を見せないように言われていたことを明かした。 1967年2月4日に、台湾の右派系紙、天々日報が彼を含む全国卓球選抜チームの大部分の選手が賀竜副首相兼体育運動委員会主任と密接な関係があったことを理由として逮捕されたこと、中国がスウェーデン卓球協会に1967年の世界選手権に不参加を通告したのはそのためと報じた。 文化大革命により1967年、1969年と2大会連続で世界選手権には出場できず卓球選手にも強い批判がなされラケットを握ることもできず毎日のように反省文を書いて過ごした。容国団や彼のコーチは自殺に追い込まれた。 1970年に周恩来首相によって監禁生活から救い出された。当時日本卓球協会会長で愛知工業大学学長であった後藤鉀二の尽力もあり3大会ぶりに出場した1971年の名古屋大会では梁丈亮、李景光などの活躍で団体決勝で日本を5-2で破り優勝したがシングルスでは2回戦でカンボジア選手と対戦することになりロン・ノル政権の選手と対戦したら棄権するようにとの周恩来の指示に従い棄権した。 なおこの大会ではその後の米中関係に大きな影響を与えた出来事の当事者となった。会場に向かう際にアメリカ人卓球選手、グレン・コーワンがバスを乗り間違えて中国選手団のバスに乗りこんできた。当時中国選手にはアメリカの選手とだけは接触していけないという鉄の規律があり、外国人と接した場合にはスパイ扱いされる時代であったためチームメートから反対されたにもかかわらず参加前に周恩来総理から「友好第一、試合第二」という言葉を受けたことを思い出し「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って握手をして杭州製錦織(西湖の風景が描かれていた)をお土産として贈った。会場に到着したバスは報道陣に囲まれてこの出来事は大きく取り上げられた。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中国はこれを外交的なカードとして利用することになった。アメリカ代表団の副団長からアメリカチームを中国に招待してほしいと申し出を彼は外交部に伝えたが時期尚早と判断され、周恩来もそれに同意したが毛沢東主席がアメリカチームを招待しようと最終決定を下しアメリカ卓球チームの中国への招待が実現した。1971年4月10日、1949年に中国共産党による中国大陸制圧後初めて米国人が中国を公式訪問、その後の外交交渉の結果、1972年2月にはリチャード・ニクソンが中国を訪問した際に人民大会堂で開かれたパーティーでは周恩来から大統領に紹介された。ピンポン外交により中国とアメリカが国交を回復するまで中国と国交を持っていたのはわずか32カ国であったがその後1年の間に100カ国以上が中国と国交を結んだ。
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