中国パキスタン国境協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 14:15 UTC 版)
「カラコルム回廊」の記事における「中国パキスタン国境協定」の解説
パキスタン政府は、1962年にカシミール北部の境界線を描いた公式地図を発行した。これは、カラコルム回廊のほとんどをカシミールの一部として描いている。パキスタン政府が発表した境界線は、大部分が1954年の『タイムズ世界地図帳(英語版)』によるカシミール北部の境界線の描写と一致している。タイムズ世界地図帳では、"Undefined Frontier area"(未定義の辺境地域)という注記付きで、カラコルム回廊をカシミールの一部として描いている。パキスタン政府の見解による境界線はタイムズ世界地図帳に示す位置からは外れているが、タイムズ世界地図帳が示すように、カシミールの国境の北側にある地域をカシミールの一部として描写した。1954年のタイムズ世界地図帳が示す北の境界線は、タグドゥンバシ・パミールからヤンギ・ダワン峠までは崑崙山脈の主稜線に沿い、クラナリの北、ヤンギ・ダワン峠の東にあった。「東の崑崙山脈はホータンの南の境界を形成する」という1890 Gazetteer of Kashmir and Ladak(1890年カシミール・ラダック地名集)の記述にも関わらず、境界線はカシミールの高地の端にある崑崙山脈の分水界から離れて引かれていた。カシミール・ラダック地名集は、カシミールにおける地名の説明と詳細を提供する本で、情報部のインド主計総監の指示の下で編集され、1890年に初めて出版された。ホータンについては「ラダックとの境界を形成する東部崑崙山脈の北に位置する中国帝国の州」と記載されている。そのため、1963年に中国パキスタン国境協定が結ばれる前のパキスタン政府の公式な立場は、パキスタンの北の国境は崑崙山脈であり、パキスタン政府に割譲される領域はシャクスガン渓谷に限らず崑崙山脈までおよぶというものだった。 1959年、パキスタン政府は、パキスタンが自国の領土と認識している土地が、中国の地図で中国の領土とされていることについての懸念を持つようになった。1961年、アユーブ・ハーン大統領は公式書信を中国に送ったが、返信はなかった。パキスタンとインドの関係から、中国はパキスタンと交渉する動機を持たなかったのではないかと考えられている。 パキスタンが中国の国連加盟を認める投票をした後、中国は1962年1月に紛争の元となった地図を撤回し、3月に国境協議に入ることに同意した。二国間交渉は1962年10月13日に正式に始まり、1963年3月2日に中国の陳毅外交部長とパキスタンのズルフィカール・アリー・ブットー外相が中国パキスタン国境協定(英語版)に署名した。
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