世界GP挑戦とは? わかりやすく解説

世界GP挑戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:52 UTC 版)

清水雅広」の記事における「世界GP挑戦」の解説

1988年味の素TERRAスポンサーを受け、ワークスライダーとして世界GP250ccクラスフル参戦開始する。しかし、開幕直前テスト右手首を骨折し序盤2戦を欠場。しかもその間清水代役アメリカGPラグナ・セカ)に出場したジム・フィリス優勝果たしてしまうという皮肉な世界へスタートとなった復帰2戦目のExpo92GP(ヘレス)で2位表彰台獲得ベルギーGPスパ)でもトップ猛追するが転倒速さでは周囲引けとらないがリタイア・ノーポイントが続きそれ以降走り変える事も含めて世界GP壁に突き当たる清水本人レースインタビュー等で「速く走る能力自体そんなに差を感じないが、速いマシン的確にセッティングする能力足りない[要出典]」という主旨コメント話していた。 フル参戦2年目1989年前年からのスランプがなかなか解消されなかったが、第6戦ドイツGPホッケンハイム)で突如トップ争い加わり3位表彰台チェコスロバキアGPブルノ)でも快走し、終盤トップ浮上するも、初優勝目前最終ラップ・ゴールライン上でラインハルト・ロスに並ばれ、わずか1/1000秒差で2位となり優勝逃す最終戦ブラジルGPゴイアニア)でもホンダ最上位2位入賞4度表彰台年間ランキング6位で終える。最終戦帰国しSUGOでのTBCビッグロードレースと筑波でのMFJグランプリ参戦MFJグランプリでは岡田忠之トップ争いの末敗れ2位優勝した岡田全日本チャンピオン獲得となり、GPライダー清水との直接対決勝った事は岡田にとって大きな自信となるターニングポイントとなった1990年最高位2位トップ争いに加わるレースは度々あり、表彰台獲得はするものの、勝てそうでなかなか勝てないというのはこの年変わらず1991年1987年から続いていた味の素TERRAレーシングからの参戦ではなくなり、ホンダワークスカラーのマシン参戦ヘルメットカラーリング一新する転倒ノーポイントの多い前年までの反省から、堅実なレース運びをすることが多くなり、安定感増した評価される一方で表彰台に手の届かない地味なレース多くなった。シーズンランキングがほぼ確定した最終戦マレーシアGPでは久しぶり攻撃的なライディング披露したが、3位走行中に転倒し結果的に表彰台一度も登らない初めてのシーズンとなってしまった。年間ランキング自身過去最高を記録1992年、ホンダワークスHRCからのエントリーではなくなり、自らのチーム組織しサテライトチームとしてワークスマシンNSR250貸与を受けるという形のエントリーとなった。走ることだけを考えていればよかったこれまでのシーズン違いスポンサー探しから自らの足で行わねばならない状況は、清水にとっては苛酷なものであった前年上田昇支援したヒーロースポーツをメインスポンサーとして獲得できたが、資金的に決して楽ではなく清水それまで貯金をすべてこのシーズン参戦使い果たしたと後に語っている。スペアカーTカー)がないため、一機しかないエンジントラブル生じ予選大半ピットで過ごすことを強いられることもあった。 反面、パーツテスト等ワークスライダーとしての種種の責務から解放されたことで、パドックで見る清水前年までと比べて明らかにリラックスしていたとも言われている。他のワークスマシン駆るライダー比べ不利な条件での参戦ではあったが健闘し、第4戦スペインGPでは一時トップに立つ活躍見せた。このレースでは、清水を含む2位争い集団から終盤抜け出したピエール・フランチェスコ・キリが、チェッカーフラッグ1周前なのにゴール勘違いしガッツポーズしながらスローダウンしてしまうという珍事があり、清水3位表彰台獲得した。しかし、資金難によるパーツ不足もあいまって成績中盤から下降線描き結果的にランキング9位でシーズン終える。シーズン終了後になって翌年参戦計画がなかなか発表されず、レース雑誌には翌年は500ccにステップアップするのでは?という記事出たりもしたが、結局この1992年清水レーサーとしての最後のシーズンとなった清水はレースデビューからわずか5年22歳若さ国内最速の域に達しながら、その5年後、28歳静かに表舞台から去った片山敬済以来世界チャンピオン期待していたファンは、世界で1勝することがどれだけ大変な事なのか、という事思い知る事となった。平忠彦八代俊二清水日本人ワークスライダーが期待応えられなかった一方1990年代に入ると世界GP対す日本人の「距離感」が劇的に変化する時期迎える。1991年には125ccクラスの上田昇・坂田和人若井伸之プライベーター世界飛び出して活躍し始める。1993年には250ccクラス原田哲也岡田忠之青木宣篤フルエントリーし、原田至って開幕戦優勝ふくめて3勝を挙げ、その年の世界チャンピオン獲得まで成し遂げた

※この「世界GP挑戦」の解説は、「清水雅広」の解説の一部です。
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