ロンドンでの回心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 23:01 UTC 版)
「ヨハン・ゲオルク・ハーマン」の記事における「ロンドンでの回心」の解説
1752年にハーマンは大学を中退し人生の進路に迷っていたが、友人であるベーレンスの計らいで、ベーレンス一家がリガで経営する会社「ベーレンス商会」に就職した(ベーレンス商会は現在でいえば、商社のような組織であったらしい)。ベーレンスは、ハーマンに形而上学的体系を放棄させ、実用的な学問(現在でいう経済学か経営学に相応するもの)を身につけさせ、現実社会で役に立つ人間にさせようとする配慮からであった。といっても、現代のビジネスマンというものには程遠く、実態はベーレンス商会の経済的理論を擁護する経済研究家であった。この頃のハーマンは近代国家の特徴を経済的活動という商業に求め、この重商主義を当時旺盛していた啓蒙思想と結び付けさせるという経済思想の研究に没頭していたという。ベーレンスは、ハーマンの英語とフランス語の能力を知っていたので、彼をおそらく貿易関連の仕事か、政治的な使者としてロンドンへと派遣した。1756年の事である。当時、ケーニヒスベルクを治めていた東プロイセンは、ロシアからの侵略を受けていた。イギリスはプロイセンを支持し、援助しようとしていたので、それに関連した使命も兼ねてロンドンに派遣されたと思われるが、ハーマン自身、ロンドンへ行った目的を一生秘密にしていたので、真相は不明である。ハーマンはかねてから英国に関する思想や文化の研究に熱中しており、このロンドンの地は第二の故郷と思っていた。途中、ベルリンで、後のライバルとなるモーゼス・メンデルスゾーンなどを訪問した後、1757年にハーマンはロンドンへついた。 しかし、ハーマン自身によれば、大都市ロンドンはハーマンにとって冷たかった。はるか東プロイセンの生まれの人間の英語や立ち居振る舞いが、ロンドンの人には奇異に映ったのであろうか。ロンドンの都市階層の人々の暮らし振りをおそらく初めて目の当たりにして、ハーマンは著しい失望で自己喪失にまで陥った。おそらくベーレンス商会の仕事で、当地のロシア公使にも接触をしたが、無情にも門前払いにされた。ロンドンでの仕事も失敗に終わった。完全に自己を失ったハーマンはこのロンドンの地で誘惑にも負け、仕事の失敗もかねての憂さ晴らしで、暴飲暴食、さらには娼婦との情交までも日常的とし、ベーレンス商会から与えられたお金も全て使い果たしてしまい、人生のどん底にまで陥っていた。彼にすれば、この堕落した生活が日常から救済される唯一の手段であった。 1758年3月13日であった。心が飢えて廃人がかったハーマンの手の上に一冊の本があった。その書物を読むなり、彼は開眼した。ハーマンは、自身の罪深さを恥じた。この書物こそ、「聖書」に他ならない。ハーマンはこれほどまでに聖書と向き合ったことは今までになかった。ハーマンは、モーセ書まで読むにあたりついに「回心」したという。カインの末裔として地上の放浪者だったハーマンは、キリストへの信仰、神の啓示へと向くことで、盲目で腐敗しきった生から解放された。同年の3月31日の夕方であったと明記している。これまでの根拠のない自己理性と自己意思に対する絶対的な信頼が打ち砕かれた。人間それ自身、盲目であるのに、如何にして自身の理性が他人に対して正しい道を示す光となりうるのであろうか、ハーマンは自身の思想の根本をこのロンドンの地で手に入れることになった。 ハーマンのこのロンドンでの思想の転換期は一般に「ロンドンでの回心」などと呼ばれている。このような自己の内省的記述はピエティスムスの思想家に顕著に見られる事でもあるが、歴史的にはパスカルやアウグスティヌスなどにも見られる。 1758年7月にハーマンはロンドンを離れ、リガへ帰国。ベーレンス商会はビジネスの失敗も咎めず、快くハーマンを迎え入れた。ハーマンはその後も、ベーレンス商会で職務にたずさわっていたが、ロンドンへ派遣される前とは明らかに態度が違っていた。ベーレンスもそのことに一種の疑念を抱いていた。ハーマンはこの頃「一人のキリスト者の聖書考察」と「我が生涯を憶う」を著す。
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