ロッパ一座 ~黄金時代~とは? わかりやすく解説

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ロッパ一座 ~黄金時代~

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:21 UTC 版)

古川ロッパ」の記事における「ロッパ一座 ~黄金時代~」の解説

1932年小林一三東京宝塚劇場東宝)を設立し当時松竹権勢誇っていた東京劇界進出する旧知ロッパは早速スカウトされ、翌1934年3月開場間もない東京宝塚劇場公演さくら音頭』への出演持ちかけられる。これは仲介立った東宝側の秦豊吉不手際から頓挫するが、1935年5月東宝前身PCL引き抜かれる7月横浜宝塚劇場一座公演始まり8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め有楽座で『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、丸の内へも進出1936年には浅草時代盟友である菊田一夫招き入れてロッパ芸歴中でも最も輝かし時期迎える。当時日記ではライバル榎本健一に対して遥かによきものを提供できる自信ついている」 とし、「日本の東京、その真ん中東洋一大劇場を、満員にしてセンセーション起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分記している。 ロッパ一座特色は、歌舞伎新派基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米モダンさを加え、特にミュージカル意識して音楽ふんだんに用いた斬新なもので、狂言中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、必ず音楽主体演目加えた一座洗練された舞台は、丸の内大手企業外資系企業サラリーマン中心とするホワイトカラー層の支持集め浅草ブルーカラー層の支持受けていた榎本健一とは対照的だった。 『ガラマサどん』、『歌ふ弥次喜多』、『ロッパ若し戦はば』、『ロッパ兵隊』、『ハリキリボーイ』などの演目大ヒットし、菊田作の『道修町』では大阪観客幅広い支持集めた若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久弥山茶花究もいた。 スタッフ座付作者としてロッパ自身菊田一夫俳優には渡辺篤三益愛子などの実力派揃えたまた、時には徳山璉藤山一郎渡辺はま子中村メイ子轟夕起子などを起用したり、台本作家として火野葦平内田百閒協力得たりと、プロデューサーとしての才能発揮して話題集めたロッパ自身戦後に「企画新しさ広さと、まわりの芸達者存分に活躍させることで客をつかんできた」 と回顧している。 さらにレコード吹き込みラジオ出演ロッパ個人ステージ活動雑誌への執筆活動大活躍し、1940年10月大阪北野劇場出演中病気倒れるまで5年間は、ロッパ黄金時代でもあった。

※この「ロッパ一座 ~黄金時代~」の解説は、「古川ロッパ」の解説の一部です。
「ロッパ一座 ~黄金時代~」を含む「古川ロッパ」の記事については、「古川ロッパ」の概要を参照ください。

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