ロジャー・イーバートによる批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:16 UTC 版)
「芸術としてのゲーム」の記事における「ロジャー・イーバートによる批判」の解説
コンピュータゲームは芸術なのかという問いは2000年代半ばに映画批評家のロジャー・イーバートが議論に参加した際に広く一般から注目を浴びることとなった。2005年に、ゲームの注解として映画『DOOM』(イーバートは星1つの評価をつけた)を適切に評価するにはゲームの『Doom』の知識が必要かどうかというオンライン上の議論に続いて、イーバートは「偉大な劇作家、詩人、映画作家、小説家、作曲家」などを引き合いに出し、コンピュータゲームはこうしたより確立された芸術形態に比肩し得ない非芸術的なメディアだと述べた。 2006年にイーバートは、 Conference on World Affairsの "An Epic Debate: Are Video Games an Art Form?" と題されたパネルディスカッションに参加し、コンピュータゲームは他の芸術形態のようには人間の意義を探求していないと主張した。1年後、このパネルディスカッションでのクライヴ・バーカーのコメントに応えて、さらにイーバートは他の芸術であれば台無しになってしまうような柔軟な可能性をコンピュータゲームが備えていることを指摘した。例としてイーバートは、ハッピーエンドを選択できるような『ロミオとジュリエット』のバージョンを提案した。イーバートによると、そうした選択肢は原作の芸術的表現を損なうものである。2010年4月にイーバートはザットゲームカンパニーのケリー・サンティアゴが2009年にTEDで行った発表を分析するエッセイを発表し、固有のルールと目的に基づいた相互作用性ゆえにゲームは決して芸術になり得ないと再度主張した。 イーバートのエッセイはゲームコミュニティから強く批判された。この批判者にはサンティアゴ自身も含まれており、芸術メディアとしてのコンピュータゲームは先史時代の洞窟絵画のように単に発達の初期段階にあるだけだと信じていると表明した。イーバートは2010年になってからコメントを修正し、ゲームは非伝統的な意味ではたしかに芸術かもしれないし、Cosmology of Kyotoをプレーするのは楽しかったと譲歩し、最初の主張に対する反応のいくつかに応えた。 イーバートはこの後この問題について議論することはなく、イーバート自身の見解には賛否両論あったが、コンピュータゲームはその商業的アピールと選択肢によって進むナラティヴゆえにファインアートと見なされる資格がないという考え方は多くの人々にとって説得力があるものであり、この中には2011年3月に "An Apology For Roger Ebert" と題してこのトピックに関する講演を行ったコンピュータゲーム界の著名人であるブライアン・モリアーティも含まれていた。この講演でモリアーティは、コンピュータゲームは伝統的なるルールに基づくゲームの延長線上にあるにすぎず、チェスや囲碁のようなゲームを芸術と見なす動きはないことを強調した。モリアーティはこれにい続き、イーバートやアルトゥル・ショーペンハウアー、モリアーティ自身のようなロマン主義者がこだわっているような意味での芸術(すなわちファインアートか崇高芸術)は大変少なく、イーバートが以前に「芸術である映画なんでほとんどない」 と主張したのと同じ程度にコンピュータゲームには芸術的長所が無いと宣言したのは一貫性があると述べた。モリアーティはコンピュータゲームをキッチュになぞらえ、コンピュータゲームの美的評価はキャンプだと述べ、芸術の範囲を大衆芸術まで広げる現在の定義を批判した。モリアーティはインディーゲームに対して働く商業的な影響力が悪い結果をもたらしていることや、ゲームデザイナーが「信用できない」ツールを用いて働かなければならない状況で芸術製作に着手する困難さについて論じた後、聴衆と作品の相互作用により作者からコントロールが奪われ、それによって芸術の表現が打ち消されるがゆえに、 ゲームにおいてはプレイヤーの選択肢がコンピュータゲームに「芸術」という言葉を用いるのを構造的に無効化するようなあり方で実現されていると結論づけた。この講演はさらに著名なコンピュータゲームデザイナーであるザック・ゲイジから鋭い批判を受けた。
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