ロケット技術者として
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「アルトゥール・ルドルフ」の記事における「ロケット技術者として」の解説
1927年8月、ルドルフはベルリンのStock & Co.に就職する。数ヶ月後、フリッツ・ヴェルナー(ドイツ語版)社に移る。1928年、ベルリン工科大学に進み、1930年に卒業して機械工学の理学士号(Bachelor of Science)を得る。1930年5月1日、ルドルフはベルリンのハイラント・ヴェルケ(heylandt-werke)に移り、ここでロケット技師マックス・ヴァリエ(英語版)と出会う:54。ヴァリエは工場敷地内にロケット実験施設を用意しており、これに興味を持つようになったルドルフは、ヴァルター・リーデル(英語版)らと共に時間を見つけては実験を手伝うようになった。当時、ルドルフはヘルマン・オーベルトの著書『宇宙旅行への道(ドイツ語版)』(原題:Wege zur Raumschiffahrt)や、映画『月世界の女』(原題:Frau im Mond)の影響からロケット技術への関心を強くしていた。 5月27日、実験中の爆発事故でヴァリエが死去する。この事故を受けてパウルス・ハイラント博士(Paulus Heylandt)はロケット研究の継続を禁止したが、ルドルフはリーデルやアルフォンス・ピーチ(Alfons Pietsch)と共に密かに研究を続けた。ルドルフはヴァリエのエンジンを改良して信頼性と安全性を高め、またピーチはロケットエンジンを用いた車両の設計を行っていた。これらの成果を披露されたハイラント博士はいくらか譲歩し、ロケット研究への支援を約束すると共にハイラントロケット自動車(Heylandt Raketenauto)の設立を認めた。また、テンペルホーフ飛行場にてこれらの成果物の展示も行われた。これら成果物は技術的な成功と見なされたものの、莫大な燃料費を入場料だけで賄うことができなかった為、一般展示はまもなくして中止された。1931年、ルドルフは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)に入党し、突撃隊(SA)にも参加した:38。 ルドルフがヴェルナー・フォン・ブラウンと初めて出会ったのは、宇宙旅行協会(VfR)の会合に出席した時だった。1932年5月に解雇された後、ルドルフはピーチと共に新型ロケットエンジンの設計に着手した。研究の後援者を探していたピーチは、陸軍兵器局ロケット兵器部門の長で、宇宙旅行協会との交流もあったヴァルター・ドルンベルガー大佐に出会う。 ドルンベルガー大佐に新型エンジンのデモンストレーションを見せた後、ルドルフはクンマースドルフ(Kummersdorf)の試験場に送られ、フォン・ブラウンの元で働き始めた。ルドルフが開発したエンジンは、アグリガット・ロケットで使用された。1934年12月、ボルクムの実験場にてフォン・ブラウンの研究班が2基のA-2ロケット発射実験に成功する。1936年末にはA-3ロケットの固定実験がクンマースドルフにて行われ、この際には陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ将軍も招かれている。 その後、クンマースドルフの施設はロケット実験を継続するには不十分とされ、1937年5月からフォン・ブラウンの研究班はペーネミュンデ研究所に移動した。ルドルフはここでA-3ロケットの実験を継続した。彼はここで娘マリアンネ・エーリカ(Marianne Erika)と共に暮らした。結局、A-3エンジンは誘導装置の問題が解決できず失敗に終わった。1938年初頭、ドルンベルガーはペーネミュンデにおける新型のA-4ロケット製造工場の建設をルドルフに委任した。A-4ロケットはのちにV2ロケットとして知られていくことになる。
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