モサドのスパイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:09 UTC 版)
「オットー・スコルツェニー」の記事における「モサドのスパイ」の解説
1960年代にイスラエルのモサドより接触があり、当時ガマール・アブドゥル=ナーセル政権下のエジプトで、長距離ロケット技術者として働く元ナチスのドイツ人ロケット技術者の名前と住所のリストを渡すことと条件に、モサドやジーモン・ヴィーゼンタールの「戦犯リスト」の中から自分の名を外すこと、すなわち自らの命をイスラエルに保護してもらうこととなった。なお、この事はスコルツェニーの死後20年以上経ってから明らかになった。 その後スコルツェニーのリストと、エジプトに入り込んでいたモサドのスパイのウォルフガング・ロッツが再チェックしたリストをもとに、ロケット技術者の自宅にはモサドより手紙爆弾が送られた。その後、正確な住所をもとに手紙爆弾を送りつけられたことに憤るロケット技術者と、なすがままのエジプト当局との関係が悪化。1965年にはドイツ人のロケット技術者全員がエジプトを後にしたため計画は中止となった。
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