モサド長官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 16:18 UTC 版)
「メイール・ダガン」の記事における「モサド長官として」の解説
退役したダガンは友人と旅行に出かけていたが、イツハク・ラビン首相暗殺がきっかけで1996年5月、シモン・ペレス内閣時に首相府のテロリズム対策部次長に任命される。同年6月、ベンヤミン・ネタニヤフの首相就任とともに同部長となる。1997年10月、アンマンでのハマースの指導者の暗殺の失敗により辞任。 2000年末にはかつての上司であるシャロンのためにリクードの選挙本部に加わる。1999年末から2000年始めにかけて、イスラエル諜報特務庁(モサド)、イスラエル総保安庁(シャバック)いずれの長官も引き受けないと公言していた。2002年には一線を退き、故郷のガリラヤにこもって趣味の絵画や彫刻に打ち込んでいた。 しかし、隠居生活はまたも中断されることとなる。アリエル・シャロン首相の要請によってダガンはモサド長官に就任することとなる。決め手となったのはシャロンの「口の中に短剣を隠し持つ男をモサド長官に据える必要がある」という言葉であった。門外漢であったダガンは当初モサドに歓迎されず、ダガンのやり方に抗議して幹部が辞任するといったトラブルがあったものの、オペレーション(秘密作戦)を重視したダガンは作戦部門の再編成、他国の情報機関との連携を密にするといった改革を行い、その結果ヒズボラの幹部イマード・ムグニエの暗殺やシリアの原子炉の破壊、イランの核開発計画の阻止といった成果を挙げると評判も改善していった。 しかし2010年1月にドバイでハマース幹部を暗殺した際、偽造旅券を同組織の工作員が使用していた疑惑が浮上 。これにより、更迭への流れが強まり、同年11月に退任へと至る。また、ダガン更迭を巡ってはネタニヤフ首相との確執も囁かれている。イスラエルが最大の脅威と位置づけるイランの核開発問題を巡って両者の認識は大きく食い違っており、ダガンが核武装の実現が2015年と位置付けているのに対し、ネタニヤフは核武装実現はそれ以前に成され、実現阻止の為に先制攻撃も辞さない考えを示している 。
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