レーニン及びスターリンのエージェント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:06 UTC 版)
「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事における「レーニン及びスターリンのエージェント」の解説
グリゴリー・ジノヴィエフにより、ミュンツェンベルクは1921年国際共産主義青年同盟書記から突然解任されたが、ミュンツェンベルクのコミンテルンやドイツ共産党での立場は特殊なものであった。彼は政治家ではなく宣伝家であり、理論家ではなく実行家であった。その為、党内の権力闘争とは一線を画しており、党内の政策論争には冷淡であった。またミュンツェンベルクはレーニンからのソ連に対する援助の呼びかけに対し、国際労働者救援会(IAH)を組織して代表を務めていた。また、世界な組織であり、党内からは「ミュンツェンベルク・コンツェルン」として有名であった国際労働者救援会は各地の共産党の統制下でなく、モスクワから独立組織として運営されていた。 ロシア内戦後の大飢餓を受け、コミンテルン第3回大会は世界中の社会主義者や左派労働者たちに向けて救援活動を呼びかけた。その呼びかけに対しミュンツェンベルクを代表とする国際労働者救援会が設立された。国際労働者救援会は最初の2年は、医薬品からトラックに至る様々な救援物資を船便50貨物ほど集めロシアに送った。救援物資自体は大した事は無かったが、大きな宣伝価値があった。救援活動と共に、月刊誌「ソビエト・ロシア画報」(Sowjetrussland im Bild)を創刊し、1926年に労働者画報(AIZ)へ変革した。1924年に国際労働者援助運動の為にフェリックス・ハレより新ドイツ出版社を買収した。出版社社長には、ミュンツェンベルクの伴侶バベッテ・グロスが就任した。 数年間の活動で「ミュンツェンベルク・コンツェルン」は飢えている子供達の炊き出しから「アジアの嵐」へと成長していた。国際労働者救援会は飢餓のロシアの炊き出しみならず、翌年には社会情勢不安の国の労働者居住区で同様の活動を行い、ドイツのインフレ時や1925年の日本でのストライキや1926年の英国のジェネスト時にも炊き出しを行っている。 後の救護委員会もそうであるが、救護会は時と共に、設立当初の公益非営利組織的な目的とは殆ど関係が無くなっていった。 ミュンツェンベルクは1924年から1933年までドイツ共産党中央委員会に属し、ドイツ帝国議会で議員として活躍した。スターリンとは3回ほど個人的に会っており、1931年7月にドイツ共産党より鉄兜団が提案したプロイセン地方議会解散の住民投票への支持を求められたときには、スターリンから完全な自己献身を求められた。住民投票により、鉄兜団や国家社会主義ドイツ労働者党及び他の右派政党は、プロイセンのドイツ社会民主党政府打倒を目指していた。ドイツ共産党ははじめはこの運動を無視していたが、モスクワからの指令により急遽「赤い住民投票」として住民投票を操る必要が生じた。 この頃よりスターリンはボリシェビキ古参を物理的に排除し始めており、ミュンツェンベルクは「大粛清」や見せ掛け裁判の報道によってその事を知っていた。それにも関わらず、スペイン内戦勃発後にモスクワへの最後の危険な旅を行った理由は、経験豊かなオーガナイザーとしての責任と関係していた。
※この「レーニン及びスターリンのエージェント」の解説は、「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の解説の一部です。
「レーニン及びスターリンのエージェント」を含む「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事については、「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の概要を参照ください。
- レーニン及びスターリンのエージェントのページへのリンク