レーニンの荷担
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:25 UTC 版)
レーニンはもはやグルジアにおける対立の苦々しさを見過ごすことができず、オルジョニキーゼに対する批判を爆発させた。1922年11月後半、レーニンはヴェーチェーカー長官ジェルジンスキーをトビリシに派遣し、問題を調査させた。ジェルジンスキーはスターリンとオルジョニキーゼに共鳴し、結果として、レポートにおいて、二人の活動がかなり穏やかであるというイメージをレーニンに与えようと試みた。しかし、レーニンはグルジア問題をめぐるスターリンたちの振る舞いに疑念を抱いた。レーニンはまた、外国や他の諸ソヴィエト共和国で起こりうる抗議(negative outcry)を恐れてもいた。1922年後半、レーニンは、オルジョニキーゼとスターリンが非ロシア諸国に対して大ロシア主義を押しつけた点で罪があることを認めた。彼は今やスターリンとその強制的な中央集権政策がいよいよ危険であると考え、お気に入りであったスターリンと一挙に決別することを決断したのである。 それでも、レーニンのグルジア問題に対する疑念は根本的なものではなかった。そしてレーニンの病が悪化するにつれ、グルジア指導者たちは強く団結できないまま取り残されていき、グルジアがザカフカース連邦へと押しやられていくのを眺めていた。ザカフカース連邦はロシア共和国、ウクライナ共和国、白ロシア共和国とともに協定に署名し、1922年12月30日にすべてを新たなソビエト連邦に統合するものであった。 ムディヴァニとその支持者たちを解任するという政治局の1923年1月25日の決定は、オルジョニキーゼとその支持者たちの最終的な勝利を表す出来事となった。
※この「レーニンの荷担」の解説は、「グルジア問題」の解説の一部です。
「レーニンの荷担」を含む「グルジア問題」の記事については、「グルジア問題」の概要を参照ください。
- レーニンの荷担のページへのリンク