レーニンによる支持と擁護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:30 UTC 版)
「ロマン・マリノフスキー」の記事における「レーニンによる支持と擁護」の解説
レーニンはマリノフスキーがドゥーマの議員に選出されたことについて、「我々は初めて、労働者階級から我々を代表する傑出したリーダーをドゥーマに送ることができた」と述べている。また、ボリシェビキが労働者出身の指導者を未だ欠いていたことからマリノフスキーの存在を重要視し、「困難は信じがたいほど大きいであろうが、このような人々によって、初めて真に労働者の党をつくることができる」と述べている。レーニンはマリノフスキーを信頼し、1913年にメンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフが最初にマリノフスキーをオフラーナのスパイとして糾弾したときも、これを信じることを頑なに拒否してマリノフスキーを擁護した。 1914年5月、マリノフスキーが二重生活のストレスから気まぐれな行動や深酒をするようになってきたことから、オフラーナはマリノフスキーの正体と任務が露呈してスキャンダルになることを恐れ、彼の解雇を決定した。マリノフスキーはドゥーマの議員を辞職し、オフラーナから6000ルーブルの一時金を与えられてロシアを出国した。 その後マリノフスキーは第一次世界大戦に出征して1915年に捕らえられ、ドイツ当局により捕虜収容所へ送られた。レーニンは依然としてマリノフスキーを信頼しており、マリノフスキーがドイツの捕虜収容所で他の捕虜に向けてボリシェヴィキの宣伝活動を開始すると、彼との文通を再開し、衣類を送り届けている。マリノフスキーがオフラーナのスパイであるという噂は彼がロシアを出国した直後から広まっていたが、レーニンはこれを否定し続け、1917年1月には「そういう嫌疑は全く馬鹿げている」と述べている。同年11月の十月革命後、オフラーナ解体に当たって秘密文書が調べられた結果、ついにマリノフスキーの正体が突き止められた際も、最初のうちは信じようとしなかった。
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