レーニンとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:06 UTC 版)
「フェリックス・ジェルジンスキー」の記事における「レーニンとの関係」の解説
内戦時の活躍からレーニンの側近と目される様になった彼は、諜報・警察活動の傍ら政府の要職も兼任した。1921年には交通人民委員(交通大臣)、1924年に最高国民経済会議議長(財務大臣)などを歴任している。レーニンが死去した時には他の幹部達と遺体が収められた棺を運んでいる。後年のソ連のプロパガンダはレーニンがジェルジンスキー、ひいてはポーランド・リトアニア民主党に多大な影響を与えたと主張したが、必ずしもレーニンとジェルジンスキーは政治上、一致した立場にあった訳ではなかった。 しばしばレーニンの政治政策(第一次世界大戦での講和、国籍政策など)を批判し、レーニンの晩年には民族自決を巡って激しい論戦を交わし、レーニンは彼を「大ロシア主義の侵略者」と批判する記述を残している。思想上の対立からレーニンは政治的盟友としてではなく、高い統率力や困難な仕事を厭わない信念の強さといった実務能力を評価して彼を重用していたのであり、従って強大な権限を持ちながらレーニンの後継者争いに加わることはなかった。 またソ連邦参加以後、ジェルジンスキーはロシア共産党員であることを第一に考えて、ポーランド・リトアニア民主党との関わりを減らしていたため、仮にレーニンから多大な影響を受けていたとしても党に影響を与えたという説は信憑性に欠ける。
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