レーニン反映論への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 07:03 UTC 版)
「マルクス主義批判」の記事における「レーニン反映論への批判」の解説
レーニンは、認識は人間による自然(物質)の反映であるという反映論を説き、意識は大脳の機能に過ぎないと述べた。 しかし、意識と物質には弁証法的には統一できない差異がある。例えば、日本語の文字は、それを知らない外国人にとってはただのインクの染みに過ぎない。日本語、日本文字を理解する人物が主観的に見るからこそ、文字として読まれるのである。文字の本質とは、規則的なパターンと日本人(日本語話者)の持つ<共同主観性>であり、物質(インク)そのものではない。現象学では、人間はただ無差別に対象をカメラのように認識しているのではなく、志向性をもって、対象を主観的に<了解>(観察ではなく)して、意味付与していると指摘している。ゲシュタルト知覚説がいうように、生物は対象をありのままにではなく、抽象化し、単純化し、象徴化して認識、記憶しているのである。 また、人間の身体は新陳代謝を繰り返し、物質的には数年で全身すべてが入れ替わると言われている。しかし、人間は同一の人格を維持している。清野清は、生命現象の本質とはタンパク質などの物質ではなく、あくまでもDNAの配列パターンであり、設計図であり、情報であると主張している。 レーニン的な弁証法的唯物論は、つきつめれば人文・社会科学領域も自然科学によって説明できるとする自然科学至上主義であり、自然科学万能論である。しかし、医学的な大脳生理学や神経学がどれだけ発達しても、知覚の問題は説明できても、解釈や感想、評価という人間の行う意味付けや価値付け、審美眼の部分は説明できない。吉本隆明はいくら人体を医学的に解剖しても、その人の性格や哲学、思想は分からないように、精神は肉体から派生するが還元はできないとして、自然科学ではアプローチ(観察)できない人間の解釈、感想、審美眼を「幻想」と呼んでいる。 生物も高度で複雑な機械に過ぎない(機械論)と言う指摘もあるが、生物と機械は違う。機械は任意に分解し、組み立てなおすことができるが、生物は一度分解したら死んでしまい、もう二度と活動を再開することはない。生命活動は身体的な全体性があって初めて成立するものであり、各要素や各部分、各器官に分解することはできないのである。外的な損傷がなくても、生物とその死体は魂が抜けたとしか表現しようのない、不可逆で質的な断絶がある。無機的な物質には存在しないが、生物には存在する根源的なエネルギーを、人々は昔から霊魂(ゴースト)、精神分析学のジークムント・フロイトはEs(エス無意識の本能衝動)、吉本隆明は原生的疎外と呼んでいる。
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