「ミュンツェンベルク・コンツェルン」
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「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事における「「ミュンツェンベルク・コンツェルン」」の解説
ミュンツェンベルクは西側のコミンテルン内での宣伝の一人者であり、ドイツ保守系報道機関「フーゲンベルグ・コンツェルン」に続き、ワイマール共和国で2番目に大きいマスコミ企業を設立して、多くの発行部数を誇った「夕刊・世界」(Welt am Abend)、「朝刊・ベルリン」(Berlin am Morgen)や労働者画報(AIZ)などを発行した。風刺雑誌「オイレン・シュピーゲル」(梟の鏡)も始めは彼の出版社より発行された。製作責任者として、プロメテウス・フィルムと映画企業連合ヴェルト・フィルム有限会社の労働者映画会社のプログラムを製作した。日本では直接・間接的に19もの雑誌や新聞がミュンツェンベルク・コンツェルンに支配されていた。 彼の生活スタイルは労働者的と言えないものであった。1927年には、妻のグロスとマグヌス・ヒルシュフェルトが所有していたIn den Zelten 9a に引越した。他の共産党党員と違い、自分の事務所の為に自家用車を購入し、最終的には大型セダンのリンカーンを所有した。彼はその為、実際に一時期百万長者であったが、「赤い百万長者」と言う名をつけられた。 ヒトラーがヒンデンブルク大統領から帝国宰相に任命された後、ミュンツェンベルクは1933年2月19日に社会民主党と一緒にベルリンのクロル・オペラハウスの大広間で、「言論の自由大会」を開催した。この大会には多くの知識人の他、フェルディナント・テンニースも参加した。エーリヒ・エフェルトは報道の自由保持の熱烈な弁論を行った。大会挨拶ではアルベルト・アインシュタインやトーマス・マンの表明もあった。ミュンツェンベルクは、オランダの共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが起こしたとされるドイツ国会議事堂放火事件後、最重要共産党員として手配された為、即刻パリに移住しなければならなかった。1933年8月には「帰化拒否及びドイツ市民権剥奪に関する法律」 によりドイツ国籍を剥奪された。国際労働者救援会(IAH)が発行する新聞、雑誌及び出版社や書籍出版社 (Universum Bücherei) はすべて1933年に禁止された。労働者画報 (AIZ)と雑誌「我々の時代」(Unsere Zeit) は国外で活動を続けた。
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