ライバル関係の一例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:49 UTC 版)
「アイルトン・セナ」の記事における「ライバル関係の一例」の解説
ネルソン・ピケ 3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたネルソン・ピケとは、母国の先輩・後輩でありながら犬猿の仲だったことが知られ、生涯友好的な関係ではなかった。ピケからの発言として、「奴の乗ったマシンに乗るときは念入りに消毒する必要がある」「サンパウロのタクシードライバー」「女に興味のないラジコン狂」など、マスメディアによって伝えられた悪口も数多い。しかし、1992年にピケがインディ500予選時に両足複雑骨折の重傷を負った際には、見舞い電報を送っており、ピケ本人は「読んで涙が流れた」と語っている。ピケはセナの葬儀に出席していないが、セナ死去時の追悼コメントでは、「暫くは出てこない存在」などセナを評価する言葉を残している。 ナイジェル・マンセル マンセルとは、殴り合いの喧嘩なども含めていざこざが多数あるものの、遺恨を残すまでには至らなかった。1991年にセナがチャンピオンを獲得した際には、タイトル争いの相手であったマンセルは、ピットで迎え祝福。逆に1992年にマンセルが初タイトルを獲得した際には、セナがピットまで赴き祝福の言葉を述べている。また、1992年のモナコGPではお互いを讃えあうなど、よきライバル関係を築いていた。セナが他界した後、日本のテレビ番組に出演した際にも「お互いに凄い奴だと認め合っていた」と、その関係について語っている。当時のF1の救急医療班の代表であり、セナとは家族ぐるみの交流があったシド・ワトキンスも、マンセルとセナは友好的な関係だった、と語っている。 アラン・プロスト プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった」と語っている。2人が最も険悪だったとされる1989年でも、ウィリアムズでのピケとマンセルの様に一切情報共有が無いということはなく、ミーティングなどではチームのプラスとなるためにプロフェッショナルな関係を保っていたという。1994年のサンマリノGPの最中である4月29日、フリー走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「親愛なるアラン元気かい? 君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。 また、フジテレビ主催のセナ追悼イベントのインタビューの中では次のように語っている。 事故から3か月たった今でも、ほとんど毎日セナのことを考えています。彼がいなくなったことで、僕のF1での大切な思い出が消えてしまいました。セナはレースでやる気を起こすためにはライバルが必要だという事に気付きました。セナには僕が必要だったのです。“僕”を倒すために彼は燃えたのです。でも、我々の間にはお互い尊敬の気持ちがありました。一年間レースをやめていた時でも、セナとはよく電話で話をしました。セナは、僕がいないとやる気が起きないと言っていました。「今年のセナはもうレースへの情熱を持っていない」と感じました。 彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない……それは非常に難しいことだったでしょう。 セナが僕を一番魅了させたのは ”レースで100%集中していたこと" 。簡単に100%と言うけれど、実際に100%集中するのはとんでもないことです。僕には家庭もあるし、休暇もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になります。ですから、僕の場合、95%……いや98%くらいレースに捧げていると思っています。しかし、セナの場合、大切なものはレースだけなのです。また僕の乗るマシンに何らかのトラブルが生じた時、僕ならすぐにピットに入ると思います。でも、セナは違いました。彼は本能で走ろうとするのです。今となっては、セナと共に走ったこと、それが僕にとって一番大切な思い出です。 — 第1部 アイルトン・セナ Forever 内 プロストへのインタビューVTRより ミハエル・シューマッハ デビュー当時のシューマッハはベテラン相手に物怖じせず、セナとの間に何度かトラブルが生じた。1992年第3戦ブラジルGPでは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}加速減速を繰り返しながらブロックした[要出典]セナに対して、シューマッハが「チャンピオンのする行為ではない」と批判(セナはエンジンのミスファイアと発言)[要出典]。第8戦フランスGPでは、スタート直後に追突してきたシューマッハを、再スタート前のグリッド上でセナが厳しく諭す一幕があった。両者はその後ドイツ・ホッケンハイムリンクにおいて、テスト走行中のトラブルで乱闘寸前になった。また、1993年開幕戦南アフリカGPではセナがコーナーでインをついたシューマッハにマシンを被せて妨害しスピンさせる行為もあった。しかし1994年には互いに認め合い、安全面について話し合うこともあった。 1994年サンマリノGPの悲劇を眼前で目撃したシューマッハは、レース後モーターホームに閉じこもり、婚約者のコリーナと泣き続けたと後に語っている。2000年イタリアGPではセナに並ぶ通算41勝目を挙げた際、表彰台後の記者会見で「勝ち星(41勝)がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と尋ねられると「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん…」と語った後、突然号泣して口を閉ざした。その後再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ」と答えた。
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