ライバル達の隆盛と鎧鍛冶ギルドの衰退
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「アントン・ペッフェンハウゼル」の記事における「ライバル達の隆盛と鎧鍛冶ギルドの衰退」の解説
ペッフェンハウゼルが活躍する16世紀後半は、腕のたつ鎧鍛冶職人がたくさん活躍しており、彼らにはパトロンがいた。彼らが作っていた美しい甲冑は、製作地域によってスタイルが異なるため大きくドイツ式、ミラノ式、グリニッジ式と分類される。以前はミラノ産が高級品として扱われていたが、技術の向上で他地域の物も遜色なく扱われるようになった。 それらは一般兵士のシンプルな鎧とは違って、戦闘に使われるよりもパレードや結婚式等の式典に使われ、権威の象徴あるいは外交上友好の品として扱われていた。 — 例えば徳川家の甲冑師岩井与左衛門の当世具足がイギリス王室に贈られ、現在はロンドン塔のライン・オブ・キングスに並んで展示されている。 多くは王侯貴族に購入されるため、パトロンの支持によって甲冑製作は発展した。 ドイツ南東部ニュルンベルクのクンツ・ロホネル(Kunz Lochner, 1510-1567) — 神聖ローマ帝国、ザクセン選帝侯、ポーランド王など。 インスブルックのイェルク・ゾイゼンホーフェル(Jörg Seusenhofer, 1505頃-1580) — ハプスブルク家のフェルディナント1世とフェルディナント2世。 ドイツ南東部ミュンヘン郊外、ランツフートのウォルフガング・グロースヘーデル(Wolfgang Großhedel, 1517-1562)とその息子フランツ・グロースヘーデル(Franz Großhedel, 生没年不詳) — フェリペ2世、ハプスブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ザクセン選帝侯など。 ミラノの鎧鍛冶の名門ネグローリ家のフィリッポ(Filippo Negroli, 1510-1579) — カール5世、フランソワ1世、スペイン軍の司令官フランチェスコ・フェルディナンド・ドール=アバロス(後にミラノ公国の司政官、シチリア総督、金羊毛騎士団の騎士)など。 ロンドンのジェイコブ・ハルダー(Jacob Halder, 1558-1608) — イングランド王家のテューダー家など。 マトイス・フラウエンプロイス(Matthäus Frauenpreis, 1530-1574) — ペッフェンハウゼルと並び称される甲冑師。デシデリウスの下で修行。ペッフェンハウゼルと同様、税金を納めていた記録がある。 中世から続くギルド制度は特権集団としての色合いを濃くしていった(例えば、ロンドンのギルドが反発するためヘンリー8世はグリニッジに工房を建てた)。年々甲冑の製作技術や芸術性が向上する一方で、その必要性はしだいに薄れていった。 その理由は定かではないが、エリザベス1世、フェリペ2世、ルイ14世、ジグムント3世など絶対王政が確立していく中、戦争のスタイルや貴族・民衆の生活は変化し、人々の関心事は変化していた。 戦争のスタイル 性能向上した銃での戦い、ランツクネヒトやスイス傭兵部隊による職業的兵士の増加、領土による経済規模拡大よりも大航海貿易による莫大な収益、ヨーロッパ圏内の対立を上回るオスマン帝国の脅威など。 貴族・民衆の生活 カトリックとプロテスタントの対立の激化、トーナメント競技会・鷹狩の娯楽性は絵画・彫刻・宮廷料理へ、限られた人しか読めなかった本はラテン語から母国語へ、印刷物の増加、多くの思想家が出現、圧政に苦しむ民衆暴動の増加、シェイクスピアによる演劇の人気、異教徒への怖れと魔女狩りなど。 後にペッフェンハウゼルの工房は、孫のヴィルヘルム(Wilhelm Peffenhauser, 1624-1683)の時代には時計メーカーとして知られるようになる。 ペッフェンハウゼルが活躍する時代は技術の向上と甲冑製作衰退が同時に進行する時期であり、パトロンを持たず自らの技術と信用を頼りに商売する姿勢は、時代を生き抜く知恵だったと考えられる。
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