ライバル・武蔵丸との関係
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「貴ノ浪貞博」の記事における「ライバル・武蔵丸との関係」の解説
武蔵丸光洋とは幕内で通算58度対戦し、貴ノ浪の21勝37敗(他に十両と1996年11月場所の優勝決定戦でも戦い、共に貴ノ浪が敗れている)と負け越しているものの、互いに良きライバルと認めていた。この両者の対戦回数58回は、2016年(平成28年)3月場所に琴奨菊和弘 - 稀勢の里寛(59回目・対戦合計66回)に塗り替えられるまで、当時の大相撲史上1位の記録だった。その取り口とライバル関係が似ていたことから、かつての名力士だった栃赤城雅男と巨砲丈士にもなぞらえられていた。また、武蔵丸とは生年が同じ1971年(昭和46年)で、新入幕・新大関と二人は全く同時に昇進を果たしていた。対照的に、曙太郎とは非常に分が悪く、大関取りの場所で初勝利したもののそれ以降はほとんど歯が立たず、通算5勝34敗とかなり一方的なものとなった。 1999年(平成11年)3月場所は、場所終盤の11日目から3横綱(貴乃花、若乃花、曙)と大関・千代大海龍二が休場する異常事態(3横綱全員が休場するのは1950年1月場所以来49年ぶり)により、上位陣は貴ノ浪と武蔵丸の2大関だけとなった。しかし、両者はその後連勝を続け、14日目終了時点で12勝2敗の成績を挙げ、千秋楽結びの一番で大関同士の相星決戦となった。結果、貴ノ浪は武蔵丸に寄り切りで敗れ、惜しくも12勝3敗の優勝次点だった。 貴ノ浪が前頭筆頭まで番付を落とした2002年(平成14年)11月場所で、横綱へ昇進していた武蔵丸に平幕力士として勝利、大関昇進以前にも取っていなかった初の金星を獲得した(その翌日から武蔵丸は左手首の怪我が悪化したため休場となる)。また同場所で貴ノ浪は10勝5敗の好成績をおさめ、大関昇進直前の1994年1月場所以来、8年10ヶ月ぶり3回目の敢闘賞も受賞した。2003年7月場所では、前頭3枚目で再び武蔵丸に勝利して2つ目の金星を獲得したが、この場所が武蔵丸との現役最後の対戦となった。 貴ノ浪が急死した翌日の2015年6月21日、都内で取材に応じた武蔵川親方(武蔵丸)は「気持ちの整理がつかない」と驚きを隠せなかった。2003年11月場所で引退した際、貴ノ浪が当時さほど自身と親しくないのにも関わらず、支度部屋で貴ノ浪が「寂しい…」と人目憚らずに泣いたと聞いた時、武蔵丸は「なんて心の広い人なんだと思った」と懐かしんでいる。それから3場所後の2004年5月場所まで現役を続けた貴ノ浪に対して「怪我しないように思いながら見ていた」という。貴ノ浪も引退後は戦友仲間として打ち解け合い、武蔵丸は「相撲の話はしないが、酒や食べ物の話で冗談ばかり言っていた。友達が一人、居なくなってしまった」と、早過ぎる別れを惜しんでいた。
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