ミルティアデス (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ミルティアデス (ローマ教皇)の意味・解説 

ミルティアデス (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:04 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ミルティアデス
第32代 ローマ教皇
教皇就任 311年7月10日
教皇離任 314年1月10日
先代 エウセビウス
次代 シルウェステル1世
個人情報
出生 不明
アフリカ?
死去 314年1月10日
テンプレートを表示

ミルティアデス(Miltiades, ? - 314年1月10日)は、ローマ教皇(在位:311年7月10日 - 314年1月10日)。

人物・生涯

アフリカ出身といわれるが、黒人でなかったとする文章もあり、正確なことはわかっていない。「ラテラノ・ヨハネ大聖堂」(サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ)を建設したといわれる。

前任者エウセビウスの死から4年の空白をはさんでの教皇就任であった。没後、12月10日に祭日が設けられ、列聖された。自然死だったようであるが、反キリスト教の皇帝マクシミアヌスの治下で苦しい立場の中、教皇を務めたことから殉教者であると考えられている。

「汝これにて勝て」の逸話

コンスタンティヌス大帝は、ミルウィウス橋の戦いへの進軍中に空中に十字架のしるしとともに、「汝これにて勝てギリシア語版ラテン語版英語版」(「エン・トゥトイ・ニカ」: εν τουτωι νικα[注 1]というギリシア文字を発見し、モノグラムキー・ローギリシア語版英語版: Chi-Rho[1][2][注 2]を旗印としたラバルムを掲げ、戦いに勝利した。

ミトラ教徒であったコンスタンティヌスは、この事件を境にキリスト教に理解を示すようになり、ミラノ勅令を発してキリスト教を公認し、ミトラ教からキリスト教に改宗した(改宗に当たっては洗礼は受けず、臨終の際に洗礼を受けたとされる)。

脚注

注釈

  1. ^ ラテン語では"In hoc signo vinces"と訳される。「汝、この徴にて勝利せよ」あるいは「この印のもと、汝は勝利する」とも。
  2. ^ キリストギリシア語綴り"Χριστός"の最初の2文字ΧΡを重ね合わせたモノグラム(組文字)でキリストを象徴する。「ラバルム』 - コトバンク」も参照。

脚注

  1. ^ リーダーズ英和辞典(1999年)
  2. ^ ジーニアス英和大辞典(2001年)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミルティアデス (ローマ教皇)」の関連用語

ミルティアデス (ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミルティアデス (ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミルティアデス (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS