ミズーリ妥協と1820年代
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「ヘンリー・クレイ」の記事における「ミズーリ妥協と1820年代」の解説
1820年、ミズーリ準州への奴隷制拡大について論争が巻き起こった。クレイは「ミズーリ妥協」と呼ばれる計画に議会の承認を得ることでこの論争を決着させることに貢献した。このことでメイン州を自由州、ミズーリ州を奴隷州とし(この結果自由州11州、奴隷州11州となり、上院でのバランスが保たれた)、またミズーリを除いて北緯36度30分(アーカンソー州北境界)以北では奴隷制を禁止した。 国全体のレベルでは民主共和党が1820年までにその役割を終えた。クレイは1824年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬し、4位になった。しかし、候補者の誰も投票数の過半数を取れず、下院が当選者を選んだ。クレイはその影響力を使って仲間の民族主義者ジョン・クィンシー・アダムズを支持し、一般選挙でも選挙人選挙でもアンドリュー・ジャクソンに負けていたにも拘わらず、アダムズに勝たせた。アダムズはクレイをアメリカ合衆国国務長官に指名したので、ジャクソン派はそのことを「裏取引」と呼んだ。クレイは怯むことなくまたその影響力を使って支持者の全国網を構築し、国民共和党を結成した。1824年、バージニア州の下院議員ジョン・ランドルフがクレイを指して「この人物は大変輝かしいが大変腐敗してもいる。まるで月光に照らされた腐ったサバだ。輝いているが悪臭を放っている」と言ったので、決闘を申し込んだ。1回目は双方が発砲し当て損なった。2回目にクレイはランドルフの上着に穴を明けた。ランドルフは空中に発砲し、クレイに握手を求めて「貴方は私の上着に借りがある、クレイさん」と言った。クレイはランドルフの手を握り「私は借りが大きいものでなくて嬉しい」と言った。トマス・ハート・ベントンはこのことを「私が目撃した最後の格調高い決闘」と呼んだ。 1824年の大統領選挙で苦杯を飲んだアンドリュー・ジャクソンはジョン・カルフーンと組んで1828年にアダムズを破るための連衡を形成した。この新しい連衡が一廉の政党となり、1834年までに民主党と称した。1836年までにクレイは国民共和党と他の会派を糾合しホイッグ党を結党した。国内政策では高い関税で産業を奨励し、内陸部の広範な改良(道路や運河)で国内市場を造り上げるアメリカ・システムを推進した。長い党争の後で1828年に高い関税を確保したが、内陸部改良のために使わせることはできなかった。1822年時の大統領ジェームズ・モンローはカンバーランド道路(アレゲーニー山脈を越えるもの)の建設法案に拒否権を発動していた。 外交政策では、1817年以降ラテンアメリカにおける独立運動と革命についてアメリカの支持者を率いた。1821年から1826年、アメリカはウルグアイ(その独立は論争となり、かなり後に承認された)を除いて新しい国家を承認した。1826年に新しい国々のコロンビア会議にアメリカが招待されたとき、反対運動が起こり、アメリカの代表団は遂に到着できなかった。クレイは、ギリシャがオスマン帝国からの分離を望んだ時にその独立革命を支持した。これはヨーロッパ事情に対する早い介入だった。
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