ミズーリ川とファイエット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:00 UTC 版)
「ウィリアム・T・アンダーソン」の記事における「ミズーリ川とファイエット」の解説
8月13日、アンダーソン隊はレイ郡をミズーリ川に向かって移動し、そこで北軍民兵隊と交戦した。この北軍を撃退したものの、この交戦でアンダーソンとジェシー・ジェイムズが負傷し、部隊は休息のためにブーン郡に後退した。8月27日、ロシェポート近くで起きた戦闘で北軍は少なくともアンダーソン隊の3名を殺した。翌日、第4ミズーリ志願騎兵連隊がアンダーソン隊を追跡したが、アンダーソンは待ち伏せを仕掛け、北軍兵7名を殺した。アンダーソン隊の部下が死体を切断し、「コロンビア・ミズーリステイツマン」紙から「人間の形をした悪魔」と呼ばれるようになった。8月30日、アンダーソン隊はミズーリ川の蒸気船を攻撃し、船長を殺して船の指揮権を奪った。彼等はその船を使って他の船を襲ったので、川の交通は事実上止まった。9月半ば、北軍兵士がハワード郡を移動中にアンダーソン隊の中の2隊に不意打ちを掛け、1日に5人を殺した。北軍兵はゲリラの馬が北軍兵の頭皮で飾られていることを見つけた。その直後にアンダーソン隊の6名が北軍に待ち伏せを受けて殺された。アンダーソンはこれらの事実を知ると、激怒し、報復の道を探るためにその地域を離れた。 アンダーソンは1864年9月24日にトッドとクァントリルに出会った。彼等は以前に衝突したことがあったが、共同して動くことに合意した。アンダーソンはミズーリ州ファイエット市を拠点としていた第9ミズーリ騎兵隊を標的とする攻撃を提案した。クァントリルは、ファイエットの町の防御が固められているのでその案を好まなかったが、アンダーソンとトッドの意見が通った。ゲリラ隊は北軍の制服を着ていたので、町に近付いても何の疑念も抱かせなかった。町は近くにいるゲリラから警告は受けていた。しかし、ゲリラ隊が町に入る前に発砲したので、騎兵隊は直ぐに砦の中に入り、市民は隠れた。アンダーソンとトッドは砦に攻撃を掛けたが成功せず、何度も無益な突撃をしかけたが成果をだせなかった。その結果はゲリラは5人が戦死し、北軍側は2人が戦死しただけだった。これがアンダーソンの頭に来た。 9月26日、アンダーソン隊はモンロー郡に到着し、パリスに向かったが、近くに他のゲリラ隊がいることを知り、オードレイン郡近くで彼等と落ち合った。アンダーソン隊はトッドを含め少なくとも300名で宿営した。大集団にはなっていたが、近くの大きな町はすべて防御が固められていたので、格好の攻撃目標が無かった。
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