ミズーリ大学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:49 UTC 版)
「バーバラ・マクリントック」の記事における「ミズーリ大学へ」の解説
ミズーリ大学のルイス・スタドラーはマクリントックに職を与えることに熱心だった。スタドラーは大学の事務局を説得し、1936年の春にマクリントック(当時33歳)を研究助手として雇うことに成功した。実力から言っても年齢から言ってもマクリントックには低すぎる待遇だったが、初めての常勤であり、これによりマクリントックは研究に専念することができた。年俸は2700ドルであった(1937年時点):144。 マクリントックはX線を使った遺伝に関する研究をさらに進めた。1938年、マクリントックは染色体のセントロメアの細胞遺伝学的な分析手法を考案し、セントロメアの構造と役割について報告している。この頃に、マクリントックの研究スタイルはほぼ確立していた。マクリントックは単調な作業を含めて、実験は自分の手で行うべきだと考えていた:166。得たデータを無理に自分の仮説に当てはめようとはせず、少数の例外についても注意を払った:157。そして、仮説を述べるときには必ず実験的なデータを準備するようにした:162。 しかし、ここでの生活も長くは無かった。マクリントックは、今の地位がスタドラーの好意によるものであり、普通のものではないと感じていた。例えば教職員の会議に呼ばれることもなく、他の大学から就職話が来てもマクリントックには知らされなかった。1939年(37歳頃)にはアメリカ遺伝学会の副会長に選ばれたが、大学での地位は助手のままだった。マクリントックは自分よりも業績が劣る研究者が助教授になっていくのが不満だった。マクリントックにも多少の問題があった。鍵を忘れた時に壁をよじ登って研究室に入ったり、大学院生は深夜に実験をしてはいけないという大学規則を独自の判断で破らせたり、優秀な学生の進学先にミズーリ大学以外の研究室を勝手に勧めたり、大学の行事に参加しなかったり、コーネル大学でのトウモロコシの収穫(まだコーネル大にも畑を持っていた)が遅れた場合に講義を休講にしたりと、大学側の都合はお構いなしだった。また、頭の悪い人間と議論する時に容赦が無いところもあった。マクリントックをミズーリ大学に招聘したスタドラーでさえ、マクリントックから見て実験技術の点で劣っており、辛辣な批評対象となった。マクリントックのこのような態度に周囲は憤慨した。 当時も変わり者の研究者は珍しくなかった。女性の研究者も皆無というわけではなかった。しかし女性で変わり者という研究者は珍しく、世間はマクリントックを持て余した。このような理由で周りと上手くいかず、結局所属学部長と喧嘩になり、1940年の夏(38歳)にミズーリ大学を辞職した:141。
※この「ミズーリ大学へ」の解説は、「バーバラ・マクリントック」の解説の一部です。
「ミズーリ大学へ」を含む「バーバラ・マクリントック」の記事については、「バーバラ・マクリントック」の概要を参照ください。
- ミズーリ大学へのページへのリンク