マルチアスリートとして
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「ボー・ジャクソン」の記事における「マルチアスリートとして」の解説
10人兄弟の8番目として生まれた。名前の「ヴィンス・エドワード」は、母親の好きな俳優の名前(ヴィンス・エドワーズ)からとった。高校時代からアメリカンフットボールのランニングバックとして活躍し、野球でも25試合で20本塁打を放つ長打力を誇った。 高校卒業時の1982年のMLBドラフトでMLBのニューヨーク・ヤンキースからドラフト指名(2巡目)を受けるが、オーバーン大学にアメフトの奨学金で進学。野球選手としては1985年に打率.401、本塁打17、打点43を記録する活躍。そして、アメフトでは大学最優秀選手賞にあたるハイズマン賞を受賞し、1984年のシュガーボウルのMVPにも輝いた。また、陸上競技(短距離)でもオリンピック候補になるなど、マルチアスリートとして去就が注目された。 1986年のNFLドラフトでNFLのタンパベイ・バッカニアーズからは全体1位指名され、当時の新人選手として最高額となる5年760万ドルを提示されたが、1986年のMLBドラフトで指名されたMLBのカンザスシティ・ロイヤルズを選び、バッカニアーズの提示した金額を下回る3年107万ドルで入団。野球を選択するにあたっては、「選手生命の長い野球をやってほしい」という母親の言葉がきっかけだったという[要出典]。同年9月にはMLBに昇格し、本拠地ロイヤルズ・スタジアム史上最長の475フィートの本塁打を放った。 翌1987年には開幕からMLBでプレーし、22本塁打・53打点・10盗塁を記録。そして、この年のNFLドラフトで7巡目で指名したロサンゼルス・レイダースと7月に契約し、マルチアスリートとなった。「私の初恋は野球です。メジャーリーガーになるのが長年の夢でした 」「私の最優先事項はカンザスシティ・ロイヤルズです。フットボールは釣りや狩猟のように、野球シーズンが終わった後の趣味です 」と述べているように、両方のシーズンが重なる9月に関しては野球を優先し、NFLでプレーするのは10月以降という契約となった(もう一人の兼業選手のディオン・サンダースはNFL優先であった)。 ただしこの契約に関しては非難の声も上がり、1987年の後半はベンチを温めることが多くなった。 1987年11月30日に行われたシアトル・シーホークスとのマンデーナイトフットボールでマンデーナイトフットボール記録となる221ヤードを走り、91ヤードのTDランもあげた。 その後も両方のスポーツで活躍を見せ、MLBでは1989年にファン投票で最多得票でMLBオールスターゲームに選出された。ナショナルリーグ先発投手のリック・ラッシェル(サンフランシスコ・ジャイアンツ)から448フィート(137m)の特大先頭打者本塁打を放ち、次の打席では勝ち越し点となる適時打となる内野安打、さらに盗塁を記録し、オールスターゲーム史上1960年のウィリー・メイズ以来となる1試合で本塁打と盗塁を記録し、MVPも受賞した。 1990年7月11日に対ボルチモア・オリオールズ戦で有名な「壁走りキャッチ」を行っている。走りながらフェンス近くで捕球した後にフェンスに気付き、激突を避けるために2、3歩進んでからフェンスを駆け上がり、垂直に飛び降りた。 NFLでもわずか4シーズン、しかも全てのシーズンにおいて途中からの出場にも関わらず、ランで通算2782ヤード獲得、16タッチダウン。レシーブでも40回のキャッチで352ヤード獲得、2タッチダウンを記録した。1987年11月30日の対シアトル・シーホークス戦(マンデーナイト)で記録したランでの1試合221ヤード獲得は、現在でもNFLのマンデーナイトのレコードとなっている。1990年にはプロボウル(1991年のプロボウル)に選出され、「MLBオールスターゲームとプロボウルの両方に出場した最初の(2013年時点で唯一の)選手」となった。
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