ボーダーズの路線群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 01:45 UTC 版)
「ノース・ブリティッシュ鉄道」の記事における「ボーダーズの路線群」の解説
1856年4月に、独立資本のセルカーク・アンド・ガラシールズ鉄道(英語版)が開業し、その路線はノース・ブリティッシュ鉄道によって営業されることになった。さらに続いて1856年7月にはノース・ブリティッシュ鉄道とロックスバラで接続しているジェドバラ鉄道も開業し、同様にノース・ブリティッシュ鉄道が営業することになった。セルカーク・アンド・ガラシールズ鉄道は1859年にノース・ブリティッシュ鉄道が吸収し、ジェドバラ鉄道も1860年に吸収した。 ホジソンは、ホイックからカーライルまでの延伸が優先であるというリアマンスの言葉を繰り返した。カレドニアン鉄道が自身の支線をカーライルからホイックまで建設する意図があると述べたことや、独立したボーダー・カウンティーズ鉄道(英語版)が同様の路線を意図しているとしたことから、この実現は不透明なものとなっていた。ボーダー・カウンティーズ鉄道は、ニューカッスル・アンド・カーライル鉄道(英語版)からヘックスハムで分岐し、北へ鉱物資源に富むと予想されていた地域へと結ぶ投機的な路線であった。同社は1854年に承認され、チョラーフォードまで1858年に開通した。その重要性は、カーライルとホイックの間の地域に通じる可能性にあった。1857年にボーダー・カウンティーズ鉄道は、ホイック線と接続する路線の法案を議会に提出した。これは不成功に終わったが、ホジソンはノース・ブリティッシュ鉄道の株主に対して、ホイックからカーライルまでの延長に45万ポンド(2019年の43,245,200ポンド相当)を投じることを彼の説得により認めさせた。しかし1858年の会期に議会に提出された法案は、カレドニアン鉄道の法案と競合するとして拒絶された。 ホジソンは、相互に痛み分けとして、カレドニアン鉄道とこの路線を共同で建設し運営する連合を形成しようとした。彼の目的は明らかにカーライルを経由してさらに南への連絡を確保することであり、カレドニアン鉄道はその意図を見抜いて提案を受け付けなかった。ノース・ブリティッシュ鉄道は、1859年の会期にカーライルへの路線を建設する新たな法案を提出した。ホジソンは、瀕死のポート・カーライルドック鉄道(英語版)およびカーライル・アンド・シロス・ベイ鉄道ドックを買収することに合意していた。これらの路線はカーライルに駅を持っており、カレドニアン鉄道とカーライル・シタデル駅で連絡し、西海岸の港シロスまでを結んでいた。1859年7月21日にカーライル延長線(ボーダー・ユニオン鉄道(英語版)と呼ばれるようになる)とカーライル周辺の小鉄道を吸収することを認める法律が女王裁可を得た。同日、ボーダー・カウンティーズ鉄道も延長線を認可されたが、これはノース・イースタン鉄道(英語版)を経由せずにニューカッスルへ到達することをにらんだホジソンの支持を得ていた。ボーダー・カウンティーズ鉄道は1860年にノース・ブリティッシュ鉄道に吸収された。 ボーダー・ユニオン鉄道の建設はゆっくりとしたものであった。カーライルから、ロングタウンから遠くないスコッチ・ダイクまでの貨物営業は1861年10月11日に開始され、全線は1862年6月32日に貨物営業を開始し、旅客に対しては1862年7月1日に営業を開始した。ボーダー・カウンティーズ鉄道は同じ日に全通した。ボーダー・カウンティーズ鉄道はニューカッスル・アンド・カーライル鉄道にヘックスハムで接続していた。ノース・イースタン鉄道はニューカッスル・アンド・カーライル鉄道を吸収することを望み、ノース・ブリティッシュ鉄道はニューカッスル・アンド・カーライル鉄道線での運行権を獲得することと引き換えに、ノース・イースタン鉄道による吸収合併への反対を撤回した。ノース・ブリティッシュ鉄道は、ボーダー・カウンティーズ鉄道経由でニューカッスルまでの列車を走らせる権利を得た。ボーダーズを通る2本の路線を通る経路は長く険しいものであったが、ニューカッスルへの到達は非常に重要な達成であると思われた。引き換えにノース・イースタン鉄道はベリックからエディンバラへの運行権を獲得した。もしホジソンが公平な取引であると考えていたとしても、すぐにその考えをなくしてしまったであろう。ノース・イースタン鉄道は、貨物および旅客列車をエディンバラまで本線上を運行できるようになったのである。 ホジソンのカーライル連絡に関する信念も、同様に根拠のないものであった。通しの予約もカーライル以南への運行も拒絶されたのである。投下した資本が再び会社の財務状態を悪化させ、配当は1パーセントへと低下した。 1861年から段階的に開業したボーダー・ユニオン鉄道は、後にウェイヴァリー線(英語版)と呼ばれるようになるが、1862年8月1日に全通した。この路線の沿線には限られた人口しかおらず、カレドニアン鉄道は通しの列車運行を妨げ、旅客の通しの予約も拒否し、貨物もまたノース・ブリティッシュ鉄道を避けて運行された。ノース・ブリティッシュ鉄道は、偶然手にしたシロスまでの連絡線を利用して船に貨物を積み替えていたが、しばらくの間この路線は投じた費用に比べて疑わしい価値しかなかった。ミッドランド鉄道が1875年になって(貨物営業、旅客営業は1876年から)セトル-カーライル線(英語版)を開業させたことでようやく、ノース・ブリティッシュ鉄道はカーライルにおいて協力的なイングランド側の事業者を得ることになった。 1863年にベリックシャー鉄道(英語版)がセント・ボズウェルからダンスまで、同社の路線の一部を開業し、1865年に全通した。この路線はノース・ブリティッシュ鉄道によって営業され、初期に同社が開通させたダンス支線からの延長ルートを形成した。ベリックシャー鉄道は、おそらくカレドニアン鉄道がこの地方に入ってこないようにする戦略的な観点から、ノース・ブリティッシュ鉄道から大いに支援された。ノース・ブリティッシュ鉄道は同社を1876年に吸収した。
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