ボディビルダー時代
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デビュー戦は2004年の東京オープン選手権。75㎏超級にエントリーし、78㎏から79㎏で出たが、仕上がりがかなり甘く、結果は同点2位であった。予選審査の段階では1ポイント勝っていたものの、決勝審査は逆に1ポイント少なく、逆転される格好となった。負けた理由については後に「ドーピングチェックのための採尿を急かされ、最終調整で我慢していた水を飲んでしまい、一気に体がむくんだのです。あっという間に体はボテッとして、腹筋も消えてしまっていました」と振り返っている。その年は、東京オープン選手権の1ヶ月後に開催された東京クラス別選手権にも出場して、75㎏超級3位に終わった。東京選手権にも出ようと思っていたが、マシンの修理中に不注意から大きな切り傷をつくってしまい、エントリーを諦めた。この東京選手権で史上最年少優勝を果たした須山翔太郎がすごすぎたので「出なくてよかったです」と振り返っている。ほろ苦い結果に終わったデビュー戦について後に鈴木本人は「これでよかったと思います。なぜなら2位だったことが相当悔しかったから。弱点もたくさん見つかりましたし、何より自分の甘さを痛感しました」「もしデビュー戦で優勝していたら、ですか?きっとボディビルのことを舐めていたと思います。そして、いつの間にかボディビルシーンから姿を消していた…なんてこともあるのかもしれません」と感想を述べている。 2005年の開幕戦は東京クラス別選手権であり、このときも大会の1ヶ月から2ヶ月前にはハムストリングを切ってしまい、この状態で減量すれば確実に小さくなると思い、仕上がりの厳しさよりも筋量維持を優先した。そのためこの大会は75㎏超級で5位に終わった。当日の体重は80㎏から81㎏であり、本人は「当然ながら甘かったです」と反省の言葉を述べている。なお東京クラス別選手権の前後に付き合っていた女性にフラれており、9月の東京選手権に向けた2ヶ月間はやけくそに練習してカロリーを消費する状況であった。普通のトレーニングに加えて起床後に40分の有酸素運動、朝食食べてトレーニング、昼休みに20分の有酸素運動、仕事を終えると勤務先のウエスト東京のある中野から自宅のある新宿までを徒歩で往復などと、ひたすら動いてカロリーを消費した。東京選手権を迎え、控え室では顔がパンパンであることをほかの選手に指摘され、一見絞れていないように見えたが、見る人が見れば優勝争いできる仕上がりであり、結果は優勝。この大会における自身の仕上がりについて鈴木は「ポージングの練習もあまりしていなかったですし、ボディビルがまだまだわかっていませんでした」「最終調整に関しても、手探り状態。水も塩も抜きすぎてしまい、筋肉が全く張らなかったですね。(中略)動いて痩せようとしていましたから、運動量の多さに疲弊した状態だったのです」と後に総括している。 人生初のボディビル優勝を手にした直後、日本選手権の話が鈴木の元に舞い込んだ。この年の東京選手権は例年より開催が遅かったため、既に日本選手権のエントリーは締め切られた後であったが、東京ボディビル連盟推薦という形で鈴木は特例で急きょエントリーが認められた。当初鈴木はエントリーを迷ったが、ある人から「東京選手権で優勝した人は、日本選手権で決勝に残るか残らないかの当落線上ぐらいのレベルだから、(日本選手権に)出なきゃいけないんだよ」と言われたこともあって、そういうものなのかと思いエントリーすることにした。「東京選手権で優勝した人は…」という話がプレッシャーになる中での出場であったが、日本選手権の結果は12位入賞。 2005年の日本選手権ではサイズ不足を痛感し、その後は5年間かけて体を大きくし、日本選手権で優勝するという5ヶ年計画を立てた。2006年は73㎏であった2005年により8㎏増の81㎏で出場したが、結果は伴わなかった。そしてその後は2007年の8位、2008年の7位と、徐々に順位を上げた。ライバルであり同世代のボディビルダーである須山翔太郎が2007年から日本選手権にエントリーするようになったのも大きなモチベーションになった。 2009年の日本選手権は絞りが上手くいっていたため、それ以前までセカンドコールどころかサードコールでもなかなか呼んでもらえず後ろに待機してばかりであったのが、この年のこの大会では初めてファーストコールで呼んでもらうことができた。最終順位は4位と表彰台まであと一歩であった。そして5ヶ年計画の最終年にあたる2010年に日本選手権を初優勝。本人は5ヶ年計画を一生懸命やるだけのつもりであったのでまさか優勝できるとは思っていなかったと驚いている。減量が上手くいっていたことが勝因であり、この年はトレーニングも週3回はダブルスプリットという増やしようであった。 しかしこれ以降はこれまでの無理が祟ってケガと戦いとなり、ウォームアップを丁寧に行わないと体中に神経痛のような痛みが走るほどになった。日本選手権初優勝までの間に、国際大会は2007年と2008年の東アジア選手権、2008年のアジアゲームズ、2009年のワールドゲームズに出場した。
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