ホークス球団における業績と自身の凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:54 UTC 版)
「高塚猛」の記事における「ホークス球団における業績と自身の凋落」の解説
1989年の福岡移転以来、パ・リーグでは上位の観客動員数を誇っていたホークスだったが、平日などは空席が目立つ状態であった。 多額の有利子負債を抱える3点事業の再建を託された高塚は、これまでの経営方針を一新し、全国区の企業展開という観点からこれまで親会社及び球団が消極的だった、地元福岡に密着した経営戦略に転換し、ホークスの名前を広めることがより得策であるという視点から、ロゴマークの著作権フリーという手法に取組んだ。さらに、松中信彦、城島健司といった九州出身のスター選手が育ち、チームの成績が上昇してきたこともあって、九州出身選手が中心となったチームを前面に打ち出したPRを展開し、福岡ドームに多くの観客を呼ぶことに成功した。福岡ドームや隣接施設建築により生じた44億円の赤字を抱えていた3点事業を、15億円の黒字に転換することに成功したことにより、高塚の名は「平成の再建請負人」として知れ渡るようになった。 その他、二軍戦もビジネスになると考えた高塚は、2001年に「二軍戦を福岡ドームで行う」と宣言。大々的に宣伝し、「二軍選手を超満員の観客の中でプレーさせてあげて、皆さんの力で彼らを伸ばしてあげてください」とファンにアピールし、RKB毎日放送での中継の実施や、当時の公式発表で30,000人を超える観客を動員するなど、一定の成果をおさめた。 また、バラエティ番組から経済トーク番組まで至るまで、在福テレビ局の番組に積極的に姿を見せ、限られた予算の中でも多くのファンを獲得するため営業面では陣頭指揮をとった。ロゴマークのフリー使用可に絡めて、地元福岡県の飲食店などに無料でステッカーを配って、それぞれの店舗で「ホークスが勝ったらキャンペーンを行って欲しい」と懇願するなど、球団人気の向上に尽力した。 しかしその一方で、1999年に日本シリーズMVPを獲得するなど、キャプテンとして日本一に貢献した秋山幸二を減俸し、工藤公康との交渉の際に「家族サービスも考慮に入れた、君の登板である火曜日には観客の入りが悪い」と言い放ち、FA移籍を決定的なものにしたと報じられた。また、2002年オフには、FA権を取得した若田部健一にも、権利を行使した上での残留を拒否している。 2003年、チームの顔である小久保裕紀の巨人への無償トレードが、高塚の意向であると大きく報じられた(いわゆる「小久保事件」)。右ひざの大怪我で2003年シーズンは出場出来なかった小久保だが、チームリーダーでスター選手だった小久保の突然の無償トレードが優勝パレード翌日に発表されたことは、歓喜に沸くファン・選手にまさに冷や水を浴びせる恰好となり、選手達は予定されていた優勝旅行をボイコットした(小久保はソフトバンク買収後の2007年に、FAでホークスに復帰している)。 これは高塚がプレー中の選手にサインボールを強要したり、部外者である一般の女性をベンチに入れて選手とハイタッチさせていたことなどについて、小久保に苦言を呈された事による報復とされている。また小久保は、オープン戦で大怪我を負ったことから公傷を主張したが、球団指定の病院での治療でないと球団は治療費を負担しないと主張する高塚と、アメリカでの治療を決断した小久保が対立し、結果、小久保は治療費を自費で支払った。このエピソード等についてはスポーツニッポンの連載企画「激震ダイエー」で記事になったが、この報復として結果的にホークスタウンの売店からスポニチが撤去されることとなった。なお、高塚は小久保に対し「2億円の不良債権」とまで言い放ち、自由契約にしようと考えていたとされる。 2004年9月に、ホークス球団を除く福岡3点事業はコロニー・キャピタル傘下となった。高塚は当初、役職に留まることになっていたが、親会社のダイエーに内緒で出版社「ダイヤモンド社」の社長に就任していたこと、ホークスタウンで高塚の書籍1万冊を「営業用消耗品」として購入させていたことなど、さまざま不祥事が発覚したためその約束は履行されず、親会社の高木邦夫社長から遺憾の意を示された。 ダイエー本社側に対決姿勢を示そうとした矢先の10月に、女性社員への強制わいせつが発覚して刑事訴追され、ダイエーグループから完全に退くことになった。
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