ベイ勢力の台頭(17世紀)
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「ベイ勢力の台頭(17世紀)」の解説
クルクラン・メフメト・パシャによる「第2のエジプト征服」を通じて、オスマン帝国の支配が回復されたが、その後間もなく、ベイと呼ばれる有力者たちのエジプト政治への影響力が高まった。オスマン帝国においてエジプトは独立採算州(サールヤーネ州)であり、政府がアミーン(エミーンとも、徴税吏)を通じて行政区から直接徴税を行うエマーネット制をとっていた(これに対してイクター制の流れを汲み、スィパーヒーと呼ばれる在地の軍人に徴税権を与える制度をティマール制という)。だが、次第に徴税実務は有力な部族や代理の徴税人に任される(徴税請負)ようになり、17世紀に入ると政府から俸給を受けていたベイや将校たちが徴税請負権を獲得して行った。この徴税請負人(ムルタズィム)を基盤とした徴税体制を徴税請負制(イルティザーム制)と呼ぶ。軍人たちはこれを経済的基盤として勢力を拡大していった。 オスマン帝国領エジプトのベイ(サンジャック・ベイの略称)の地位は当初はマムルークのものではなかった。17世紀にはこの地位へのマムルーク家系の進出も進んだが、ベイたちの中にはバルカン半島やアナトリア出身の自由身分の軍人たちも含まれていた。ベイたちは主従関係を結んでバイト(家、一族)を中心とした軍事集団を作り、党派を形成していった。こうした党派はやがてチェルケス人系マムルークを中核としたフィカーリーヤ(英語版)と非マムルーク系軍人を中核としたカースィミーヤ(英語版)という二大派閥へと収斂していく。この2つの派閥はエジプト政治における最重要ファクターとなって行き、その争いは18世紀初頭まで続いた。17世紀前半にはフィカーリーヤの有力者リドワーン・ベイが25年にわたってアミール・アル=ハッジ(巡礼長官)を担って権勢を振るい、1656年に彼が死んだ後にはオスマン政府によって非マムルーク軍人がカースィミーヤに補填され、党派争いが激化した。 一方で、オスマン帝国が任命したエジプト総督の権威は継続的に衰えた。オスマン帝国の中央政府とエジプト総督はその権威と支配をエジプトで現実のものとして行使することに苦心したが、現地有力者たちとの折衝や抗争に常に配慮が必要であった。次のような事例が示すように、現地側の抵抗によって総督位が左右される事態もしばしば発生した。 1623年、オスマン宮廷から、エジプト総督カラ・ムスタファ・パシャ(英語版)を解任し代わってチェシュテジ・アリー・パシャ(アラビア語版)(以下、アリー・パシャ)を総督に任命する命令が発せられた。役人たちはこの新たな総督の代理人に慣習となっていた謝礼を要求した。この代理人が謝礼の支払いを拒否すると、役人たちはオスマン宮廷へ自分たちがアリー・パシャではなくカラ・ムスタファ・パシャを総督として望んでいるという書簡を送った。その間にアリー・パシャがアレクサンドリアに到着し、その後カイロからきた代表団と面会した。代表団はアリー・パシャを総督として望まないと伝えた。アリー・パシャは穏やかな返答を返したが、代表団が一切の譲歩無くそれに対する回答を伝えると、代表団のリーダーを逮捕・投獄した。その後、アレクサンドリア守備隊がアレクサンドリアの城塞(シタデル)を攻撃し代表団のリーダーを力づくで解放すると、アリー・パシャは自分の船に戻って逃亡することを余儀なくされた。その後まもなく、イスタンブルからカラ・ムスタファ・パシャの総督位を承認するという回答が送られた。 また、1630年にコジャ・ムーサー・パシャ(英語版)(以下、ムーサー・パシャ)が新たなエジプト総督に任命された。エジプトの軍団は彼がキタス・ベイ(Kitas Bey)を処刑したことへの怒りから、この新たな総督を追い払うために立ち上がった。キタス・ベイはペルシアでの戦役に従事するエジプト軍を指揮するはずであった。ムーサー・パシャは死刑執行人を復讐に燃える兵士たちに引き渡すか、辞任するかを迫られ、前者を拒否したため辞職を余儀なくされた。1631年、現地軍の行動を承認しムーサー・パシャの後任としてハリル・パシャを任命するという布告がイスタンブルから発せられた。エジプト総督は現地軍に対抗するための支援をスルターンから得られなかったのみならず、新任の総督たちはそれぞれ、財政上の理由という名目で定期的に退任する前総督に罰金を科した。離職する総督はこれを支払うまでエジプトを離れることが許可されなかったであろう。この強奪行為がゆすりの習慣を生み出し、またエジプトはこの時代に飢餓と疫病に苦しめられた。1619年の春に疫病によって635,000人が死亡し、1643年には230の村が完全に荒廃したと言われている。 17世紀後半にオスマン帝国大宰相キョプリュリュ・アフメト・パシャをはじめとするキョプリュリュ家によって中央政府の改革が行われると、エジプトでもそれに連動して低下しつつあった税収と中央政府への送金額の増大が試みられた。エジプト総督メレク・イブラヒム・パシャ(トルコ語版)(在職:1661年-1664年)はエジプトの党派争いにおいて、フィカーリーヤに対してカースィミーヤを支援するためにイスタンブルから送り込まれていたアフマド・ベイを逆に殺害し、一時的にこれを鎮静化させることに成功した。そして増税と中央への送金額の増額が試みられたが、これは完遂することはなかった。その後カラ・イブラヒム・パシャ(英語版)(在職:1669年-1673年)も財政改革と役人の入れ替えによって送金額増額を達成したものの、成果は一時的なものに終わった。
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