ベイ勢力の台頭とは? わかりやすく解説

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ベイ勢力の台頭(17世紀)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「ベイ勢力の台頭(17世紀)」の解説

クルクラン・メフメト・パシャによる「第2のエジプト征服」を通じてオスマン帝国の支配回復されたが、その後間もなくベイ呼ばれる有力者たちのエジプト政治への影響力が高まったオスマン帝国においてエジプト独立採算州(サールヤーネ州)であり、政府アミーン(エミーンとも、徴税吏)を通じて行政区から直接徴税を行うエマーネット制をとっていた(これに対してイクター制流れ汲みスィパーヒー呼ばれる在地軍人に徴税与え制度をティマール制という)。だが、次第徴税実務有力な部族代理徴税人任される徴税請負)ようになり、17世紀に入ると政府から俸給受けていたベイ将校たちが徴税請負獲得して行った。この徴税請負人(ムルタズィム)を基盤とした徴税体制徴税請負制(イルティザーム制)と呼ぶ。軍人たちはこれを経済的基盤として勢力拡大していった。 オスマン帝国領エジプトベイ(サンジャック・ベイの略称)の地位当初マムルークのものではなかった。17世紀にはこの地位へのマムルーク家系進出進んだが、ベイたちの中にはバルカン半島アナトリア出身の自由身分軍人たち含まれていた。ベイたちは主従関係結んでバイト(家、一族)を中心とした軍事集団作り党派形成していった。こうした党派はやがてチェルケス人マムルーク中核としたフィカーリーヤ(英語版)と非マムルーク軍人中核としたカースィミーヤ(英語版)という二大派閥へと収斂していく。この2つ派閥エジプト政治における最重要ファクターとなって行き、その争い18世紀初頭まで続いた17世紀前半にはフィカーリーヤの有力者リドワーン・ベイが25年わたってアミール・アル=ハッジ巡礼長官)を担って権勢振るい1656年に彼が死んだ後にはオスマン政府によって非マムルーク軍人がカースィミーヤに補填され、党派争い激化した一方でオスマン帝国任命したエジプト総督権威継続的に衰えたオスマン帝国中央政府エジプト総督はその権威支配エジプト現実のものとして行使することに苦心したが、現地有力者たちとの折衝抗争に常に配慮が必要であった次のような事例が示すように、現地側の抵抗によって総督位が左右される事態もしばしば発生した1623年オスマン宮廷から、エジプト総督カラ・ムスタファ・パシャ英語版)を解任し代わってチェシュテジ・アリー・パシャ(アラビア語版)(以下、アリー・パシャ)を総督任命する命令が発せられた。役人たちはこの新たな総督代理人慣習となっていた謝礼要求した。この代理人謝礼支払い拒否すると、役人たちはオスマン宮廷へ自分たちがアリー・パシャではなくカラ・ムスタファ・パシャ総督として望んでいるという書簡送ったその間アリー・パシャアレクサンドリア到着しその後カイロからきた代表団面会した代表団アリー・パシャ総督として望まない伝えたアリー・パシャ穏やかな返答返したが、代表団一切譲歩無くそれに対す回答伝えると、代表団リーダー逮捕・投獄した。その後アレクサンドリア守備隊アレクサンドリア城塞シタデル)を攻撃し代表団リーダー力づく解放すると、アリー・パシャ自分の船に戻って逃亡することを余儀なくされた。その後まもなく、イスタンブルからカラ・ムスタファ・パシャ総督位を承認するという回答が送られた。 また、1630年にコジャ・ムーサー・パシャ(英語版)(以下、ムーサー・パシャ)が新たなエジプト総督任命された。エジプト軍団は彼がキタス・ベイ(Kitas Bey)を処刑したことへの怒りから、この新たな総督追い払うために立ち上がった。キタス・ベイはペルシアでの戦役従事するエジプト軍指揮するはずであった。ムーサー・パシャは死刑執行人復讐燃え兵士たち引き渡すか、辞任するかを迫られ前者拒否したため辞職余儀なくされた。1631年現地軍の行動承認しムーサー・パシャの後任としてハリル・パシャ任命するという布告イスタンブルから発せられた。エジプト総督現地軍に対抗するための支援スルターンから得られなかったのみならず新任総督たちはそれぞれ財政上の理由という名目定期的に退任する総督罰金科した離職する総督はこれを支払うまでエジプト離れることが許可されなかったであろう。この強奪行為がゆすりの習慣生み出し、またエジプトはこの時代飢餓疫病苦しめられた。1619年春に疫病によって635,000人が死亡し1643年には230が完全に荒廃したと言われている。 17世紀後半オスマン帝国大宰相キョプリュリュ・アフメト・パシャはじめとするキョプリュリュ家によって中央政府改革が行われると、エジプトでもそれに連動して低下しつつあった税収中央政府への送金額の増大試みられた。エジプト総督メレク・イブラヒム・パシャ(トルコ語版)(在職1661年-1664年)はエジプト党派争いにおいて、フィカーリーヤに対してカースィミーヤを支援するためにイスタンブルから送り込まれていたアフマド・ベイを逆に殺害し一時的にこれを鎮静化させることに成功した。そして増税中央への送金額の増額試みられたが、これは完遂することはなかった。その後カラ・イブラヒム・パシャ(英語版)(在職1669年-1673年)も財政改革役人入れ替えによって送金増額達成したものの、成果一時的なもの終わった

※この「ベイ勢力の台頭(17世紀)」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
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