プロ入りとカナディアンズ時代
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「ギイ・ラフレール」の記事における「プロ入りとカナディアンズ時代」の解説
モントリオール・カナディアンズの敏腕GMだったサム・ポロックがラフレールにどうしてもカナディアンズのユニフォームを着せたいと考え、カリファルニア・ゴールデンシールズから第1位指名権を譲り受けるための取引を行った。 こうして1971年のNHLドラフト(英語版)全体1位でカナディアンズに指名され、入団。1971年当時のカナディアンズは、NHL史上最古の歴史を持つ名門チームで、1950年代に5度、1960年代に5度のスタンレー・カップを獲得した古豪でもあった。入団直前に所属したジュニアチームで130ゴール、79アシストと驚異的な成績を残したことに加え、名選手のジャン・ベリヴォーが引退したばかりでもあり、ラフレールには過剰ともいえる期待が寄せられていた。 入団後最初の3年間の成績は、順に、64ポイント、55ポイント、56ポイントと決して凡庸ではなかったが、ルーキーから華々しい活躍をした同期のマーセル・ディオンと常に対比されマスコミはラフレールに対し、辛い点をつけたとされる。 1974-1975シーズンから飛躍。このシーズンから、怪我防止のためのヘルメットの着用を止めたのであるが、創造的で果敢な彼のプレーと長髪が風になびく姿がよくマッチしたといわれている。カナディアンズは1970年代においても、6度のカップ優勝を果しているが、ラフレール自身もそのうち5度の優勝経験をもち、チーム記録となる1,246ポイント(518ゴール、728アシスト)の記録を残し、1976年、1977年、1978年と3年連続でリーグ得点王(アート・ロス記念賞)に輝いた。また、レギュラーシーズン最優秀選手賞(ハート記念賞)を2度、選手達の選ぶ最優秀選手賞(レスター・B・ピアソン賞)3度、プレイオフ最優秀選手賞1度(コーン・スマイス賞)をそれぞれ獲得している。ラフレールは1970年代のいわゆるカナディアンズ王朝を支えた屋台骨であった。 もっとも、カナディアンズにおける最後の1984-1985シーズンでは、かつてのチームメイトで新しくコーチとなったジャック・ルメールやGMのチーム戦略と反りが合わなかったともいわれる。後の1995年にニュージャージー・デビルスをスタンレーカップ優勝に導いたルメールは、ディフェンス重視のゲーム観を持っていたといわれ、ある意味で才能任せ、自由奔放なプレーが身上のラフレールとは相容れない点があり、出場機会も大幅に減少した。その一方で、トレードを申し入れても、フロントは実績と人気を誇るラフレールを放出する決断ができなかったとされる。こうして、ラフレールは不本意ながら引退し、1988年にホッケーの殿堂入りを果す。
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プロ入りとカナディアンズ時代
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「バーニー・ジョフリオン」の記事における「プロ入りとカナディアンズ時代」の解説
14歳からモントリオール・カナディアンズのマイナーチームに所属し、1951年2月14日からメジャーチームの一員となった。NHL初シーズンで18試合しか出場経験がなかったため、翌シーズンにも新人王(カルダー記念賞)の受賞資格を保有していた。そして翌シーズン、伝家の宝刀ともいえるスラップショットを駆使し30ゴール、24アシストを上げ同賞を獲得した。 1961年にはNHL史上でチームメートであったモーリス・リシャールに次いで2人目となる1シーズン50ゴールを上げた。カナディアンズでは、スーパースターで左ウイングのリシャール、センターのジャン・ベリヴォーと同じラインでライト・ウイングを務め、チームを6度のスタンレー・カップ優勝に導いた。 16シーズンの現役生活で、883試合に出場し393ゴール、429アシストを上げるとともに、689分のペナルティ・ミニッツの記録を残した。現役当時は、乱戦模様の試合が数多く見られた時代で、その証として彼も鼻骨骨折6度、全身の縫い跡400針を負ったといわれる。1958年には、練習中の事故で大怪我を負い、緊急手術で命が助かるといった経験もしている。その怪我をしたシーズンには、医者の出場見合わせの勧めにも関わらず、6週間後にリンクに戻りスタンレー・カップの決勝戦に出場している。 ジョフリオンに対する選手としての評価は、同時代にチームメートのモーリス・リシャール、ライバルのデトロイト・レッドウィングスにゴーディ・ハウ、アンディ・バスゲイトらの抜群の選手の陰に隠れがちであって、リーグ全体に名の通るスーパースターの地位を確立するところまでは行かなかったといわれる。事実、1955年(いわゆるリシャール暴動のあった年)には、リシャールを1ポイント差でかわして、得点王に輝いているが、それでもNHLオールスター戦の第2チームにしか選抜されなかった。このことから、内心は不満を抱いてホッケーを止めようとまで考えたが、リシャールやベリヴォーらの説得で踏みとどまったこともあるといわれる。 1964年に一度現役を引退したが、2シーズン後の1966年6月9日にニューヨーク・レンジャースにおいて現役復帰を果した。
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