フランス本土進攻
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「第五次イタリア戦争」の記事における「フランス本土進攻」の解説
1543年12月31日、ヘンリーとカールはさらなる条約に署名、1544年6月20日までにフランスへ親征することと、兵力は両国がそれぞれ3万5千以上の歩兵、7千以上の騎兵を供出することを約束した。 対抗してフランソワも7万の軍勢を集めた。しかし、ヘンリーにもカールにもすぐに戦役をはじめられない事情があった。ヘンリーはスコットランドとの戦争の最中で、カールはドイツ諸侯との争いに没頭していた。5月15日、初代サマセット公爵エドワード・シーモアはスコットランド侵攻の進展によりスコットランドはもはや脅威ではなくなったことをヘンリー8世に報告した。報告を受けて、ヘンリー8世は腹心や皇帝の制止を振り切って独自のフランス戦役の準備をはじめた。一方カールは第四回シュパイアー帝国議会で諸侯との協議を成立させ、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世もフランス侵攻に参加した。 1544年5月にはフェッランテ1世・ゴンザーガ(英語版)率いる軍がルクセンブルクの北に、カール自ら率いる軍がプファルツ選帝侯領に配置され、フランス侵攻の準備が整った。その総勢は4万2千で、さらに4千人がイングランド軍と合流した。5月25日、フェッランテ1世はルクセンブルクを占領、続いてコメルシーとリニーへ軍をすすめた。フェッランテは同時に声明を発し、皇帝の侵攻の目的を「トルコ人と同盟した暴君の打倒」とした。7月8日、フェッランテはサン=ディジエを包囲(英語版)した。カール率いる親征軍もすぐに包囲に参加した。 ヘンリー8世も第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワードと初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンを司令官に任命して、4万の軍勢をカレーに派遣した。ヘンリーと皇帝が戦役の目的とヘンリーの親征の是非について結論をだせていないのを尻目に、この大軍は緩慢に、しかも無目的にフランス領土へと前進した。最終的にヘンリーが下した決定は軍を二手に分けることだった。ノーフォーク公にはアルドレス(英語版)またはモントルイユを包囲する命令が下った。彼は後者を選んだが、補給不足や指揮の乱れなどで失敗した。サフォーク公にはブローニュ=シュル=メール包囲の命令が届き、7月14日にはヘンリー8世がカレーに渡りサフォーク公に加勢した。ブローニュ=シュル=メール包囲戦(英語版)はそのまま7月19日に始まった。皇帝は大反対し、パリを攻撃すべきと主張したが聞き入れられなかった。 カール自身はいまだにサン=ディジエで足止めを食らっていた。ジロラモ・マリーニ(イタリア語版)に要塞化され、サンセール伯ルイ4世・ド・ビュエイユ(英語版)が守備に就いていた市は頑強にも持ちこたえていた。7月24日、カールはフランス軍が駐留しているヴィトリ=ル=フランソワ(英語版)を占領した。フランス軍はたびたびそこから出撃して皇帝軍の補給線を寸断しようとした。8月8日、守備軍は物資の不足により交渉に入った。8月17日、フランス軍が投降し、皇帝から軍旗を降ろさずに去ることを許可された。41日間足止めされたことで、皇帝軍の攻勢が止まった。皇帝の腹心は撤退を主張したが、皇帝は面目にかかわるとしてシャロン=アン=シャンパーニュへ強行軍した。しかし、マルヌ川渡河はジャロン(英語版)で待ち受けていたフランス軍により阻止された、渡河はかなわなかったが、皇帝軍はシャンパーニュを荒らしまわり、エペルネー、シャティヨン=シュル=マルヌ(英語版)、シャトー=ティエリ、ソワソンを次々と落とした。 フランスは皇帝軍を止める行動を全くしなかった。ガブリエル・ド・ロルジュ率いる軍勢はラニー=シュル=マルヌの反乱鎮圧に手を焼いており、皇帝軍を相手する暇がなかった。パリは恐慌に陥ったが、フランソワは恐れるものは何もないと強弁した。カールは9月11日にようやく撤退した。ヘンリーはブローニュ攻城を自ら指揮、市街地を9月のはじめに落とし、城も9月11日に攻め入った。守備軍はその数日後ようやく投降した。
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