フランス本国の解放
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「自由フランス軍」の記事における「フランス本国の解放」の解説
1944年6月、ノルマンディー上陸作戦に自由フランス海軍の艦艇が参加。自由フランス陸軍も追って上陸したが、部隊はほぼ全ての装備が米英軍からの供与品で、米軍の指揮下で連合国軍の補助部隊のような扱いを受けていた。しかし8月19日にドイツ占領下のパリでレジスタンスが蜂起すると、ド・ゴールは敗走するドイツ軍の追撃を優先したいアイゼンハワーの意図とは別に、虎の子、ルクレールの第2装甲師団をパリへ急行させ、8月25日にパリ解放を成し遂げた。なおパリのドイツ軍指揮官、フォン・コルティッツ将軍の降伏を受けたのは植民地人、チャド連隊のアンリ・カルシェ中尉だった。 自由フランス軍が国内外のあらゆる勢力に先んじてパリ解放を成功させたことで、ド・ゴールが戦後フランスの主導権を握ることが確定した。しかし一方で、自由フランスとは違う政治路線のレジスタンス各派の功績が、戦後フランスでなかなか認識・評価されない事態も招いた。 1944年9月、自由フランス軍は南フランスにも上陸。レジスタンスが合流したこともあって、自由フランス軍は560,000人規模となっていた。この数は年末までに100万人規模、1945年5月には130万人に達した。この間フランス軍はアルザス、アルプス山脈およびブルターニュ地方で戦い、ドイツ本土とベルリンの分割占領にも参加した。 1945年にはインドシナの奪還も予定されており、連合国の一員として7個歩兵師団・3個機甲師団を太平洋方面に派遣する計画だったが、その前に戦争が終わった。なお自由フランス海軍の一部は極東の連合国軍艦隊に加わって活動しており、9月2日の日本降伏にも立ち会っている。
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