フランス本土追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 15:08 UTC 版)
「ルイーズ・ミシェル」の記事における「フランス本土追放」の解説
1873年、ヴィルジニー号で出港(このときコミューンの同士と『さくらんぼの実る頃』を歌ったとも言われる)、4ヶ月の船旅の末ニューカレドニアに到着した。旅の途上、論客として知られていたアンリ・ロシュフォール(fr:Henri Rochefort)や、ミシェルと同様にパリ・コミューンで活躍したナタリー・ルメル(fr:Nathalie Lemel)と交流しており、特にルメルとの交流はミシェルが無政府主義へ傾倒する契機となったと推測されている。ミシェルは男性と別待遇されることを頑なに拒否しつつ、7年間に渡ってニューカレドニアに滞在した。この期間に『ニューカレドニア小報』(Petites Affiches de la Noubelle-Calédonie)を発刊し、『カナック人の伝説と武勲詩』(Légendes et chansons de gestes canaques)を編纂している。彼女は土着のカナック人に教育を与えようとし、また1878年に彼らが蜂起した際にはこれを擁護する立場を執った。これは彼らに抑圧的だった一部のパリ・コミューン経験者とは対照的であった。この翌年にヌメア(Nouméa)に居住する許可を得て教職に復帰し、追放者の子女の家庭教師を行い、次いで複数の女子学校の教壇に立つようになった。
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