ビュフェ車・食堂車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:34 UTC 版)
「新幹線0系電車」の記事における「ビュフェ車・食堂車」の解説
ビュフェは開業時から存在し、岡山開業時までに製造された車両(35形、1992年までに全廃)には椅子が設けられていたが、本格的な全室食堂車である36形の登場後は、軽食堂よりも売店・車内販売基地としての機能が主体となったことから、第22次車以降の増備車両(37形)からセルフサービスの立食式に変更され、ビュフェ自体の面積も縮小された。 開業時は全編成とも2両組み込まれていたが、日本万国博覧会(大阪万博)輸送を控えた1969年夏頃より輸送力増強を目的として「こだま」用編成の5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成はビュフェ1両が正規となった。ただし、こだま用全編成の組み換えまでには至らず、1973年8月から1980年9月までのこだま用K編成47本体制下において、17本がビュフェ2両組み込み(ただし1両は売店扱い)のまま残ったが、そのうち10本については1975年から1976年にかけて2両のうち1両が新製の売店車と差し替えられ、ビュフェ車については増備されたひかり用編成に転用された。 山陽新幹線全線開通を控えた1974年以降、「ひかり」用として使われたH・NH・N編成には食堂車(36形)が設けられていた。食堂車については山側に独立した通路を設け、通り抜ける乗客と食堂車利用者の分離を図っている。食堂内の山側には4人掛けの、海側には2人がけのテーブルが設置された。 当初は通り抜ける客に食事をするようすを見られないように、食堂と通路を隔てる壁に窓を設けていなかったが、利用客から「食事しながら富士山を見られないではないか」というクレームが多かったことを受け、1979年以降、通路側壁面に窓(通称:マウント富士)を設置する改造が施工された。 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、姫路 - 新大阪間は高架橋の落橋や橋脚の損傷のため運休していた。この時に博多 - 姫路間の運用に充当されていた本系列の食堂車は営業休止となり、そのまま再開されることなく営業を終了した。 民営化以降、JR西日本はサービス改善のため「ウエストひかり」編成にビュフェを改装した車両を連結した。ビュフェカウンター横のスペースを拡大してテーブルと椅子を設け、座席に持ち帰ることなくそのまま座って食べられるようにした。ここではカレーライスなどの軽食が提供された。最後までビュフェ車が連結されていたのはR62編成の3号車(37-7302)で、フリースペースとして供用されていたが、2008年3月14日に運行を終了し、3月28日付で廃車された。 ビュフェ(37形2000番台) ビュフェの厨房(37形) ビュフェに設置されていた速度計(37形) 食堂車(36形、リニア・鉄道館) 食堂車厨房(36形、リニア・鉄道館) 食堂車通路(36形、車端部) ウエストひかりに連結されたビュフェ(車端部から) ウエストひかりに連結されたビュフェ(客席側から)
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