ビュユック島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:24 UTC 版)
名称は「大きな島」の意。本土との最短距離は2~3km。ローマ帝国からビザンツ帝国の時代には教会や修道院が多数建てられ、貴族階級の流刑地として利用された。ギリシャ語ではプリンキポ島(Πρίγκηπο;「王子の島」)の名で呼ばれ、ギリシャ系住民が農漁業を営む島であったが、オスマン帝国時代、19世紀半ばにイスタンブールとの間に汽船が開通して以降、別荘地として開発された。1920年代にはベラルーシからの移民が一部入植した。1929年にソ連を追放されたトロツキーが数年間滞在し、『ロシア革命史』の執筆活動を行ったことでも知られる。 集落は島の北部に集中しており、役所も北東部のマデン地区にある。豊かな自然のほか、ビザンツ帝国時代の遺跡見学や海水浴・保養を目的とした観光客が国内外から訪れ、夏場の人口は冬場の10倍になる。1964年まで営まれていたプリンキポ島ギリシャ正教会孤児院(英語版)はヨーロッパ最大、世界でも東大寺大仏殿に次ぐ規模の木造建築として知られる。
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