ヒルサイド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:59 UTC 版)
「ルイーザ・メイ・オルコット」の記事における「ヒルサイド」の解説
フルートランズが崩壊した後は賃貸部屋に移り、娘たちはまた学校に通うようになった。アッバは家族を養うためにお金を稼ぐことを考えたが、ブロンソンは精神的な向上発達だけに価値があると考え、肉体労働は堕落だと考えていた。ブロンソンは超絶主義者たちの共同体の夢を捨てていなかったが、参加者を集めることができず、理想的な共同体があれば参加したいと考えていたが、希望に合うものは見つけられなかった。その後母アッバの父の遺産1,000ドルの相続がようやく可能になり、エマーソンからの500ドルの財政的支援を受けて、コンコードの家屋を購入している。一家は1845年4月1日に「ヒルサイド」と名付けた家に引っ越した。(これは1852年にナサニエル・ホーソーンに売却され、ホーソーンは家を「ウェイサイド」と改名している。) フルートランズの失敗で打ちのめされていたブロンソンは、ここで快復していったが、家族を養う役割は完全に放棄してしまった。ブロンソンは農業を営み、ウォールデン池の有名な小屋を頻繁に訪れ、自然主義者ヘンリー・デイビッド・ソローと永遠の友情をはぐくんだ。 アッバと姉妹たちはここで生き生きと活動し、オルコットはここで初めて自分の部屋を手に入れ、エマーソンからゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を紹介され、ゲーテに傾倒し、詩作や物語作りに熱中し、文章力を磨いた。また、エマーソン家でダンテ、シェイクスピア、コールリッジの作品に親しんだ。オルコットはセンチメンタルな年頃で、隣家のラルフ・ワルド・エマーソンを自分にとってのゲーテと考えて憧れ、年若い恋人になる空想をし、渡すことのない手紙を書いていた。 オルコットはアンナと共に、14 歳の冬にコンコードの町でソローの学校に通い、ウォールデン池でソローから植物について学び、その経験に触発され、『ソローの横笛』という詩を書いた。テンプルスクールと1年のコンコードの学校が、オルコットの数少ない学校教育の経験となった。また、エマーソンは自宅の書庫を開放し、本を読ませてくれた。しかし、彼女が受けた教育のほとんどは、厳格で「自己犠牲の甘美さ」を信条とする父親からのものだった。彼女はまた、家族の友人であるエマーソン、ホーソーン、セオドア・パーカー(英語版)等の作家や教育者、文化人、マーガレット・フラーやジュリア・ウォード・ハウなどのフェミニスト、サフラジェット(女性参政権活動家)と交流し、知的な刺激を受けている。 オルコットは姉アンナと共に「ルイ・オルコット劇団」を作っており、家族や隣人を招いて自作の劇を上演して楽しんでいた。その劇は、ラブシーンや変装、毒草や愛の媚薬、決闘、自殺や殺人、地下牢、陰鬱な森といった、センセーショナルな要素のあるものだった。12歳の時には、母の友人であったリディア・マリア・チャイルドの古代ギリシャを舞台とする『フィロシア』(1836年)を読んだ。本書は作者が「自由奔放な想像力を展開した作品」と語るように、ファンタジックでロマンチックなシーンが印象的な小説で、少女時代のオルコットは本書の悪女キャラクターのアスパジアを気に入り、この作品を芝居にしてアスパジアを演じていたという。 オルコットは走ることが大好きで、森の中を駆け回り、本では知ることができないことを自然から学んだ。長い散歩やランニングをしていることを日記に頻繁に書いており、のちに彼女は、若い女性の読者にも走ることを奨励することによって、ジェンダーに関する一般的な社会的規範に挑戦した。 ここでの暮らしが少女時代で最も幸福な時期だったとしており、ヒルサイドでの経験が部分的に『若草物語』に取り入れられた。 1847年に一家は、奴隷解放に取り組む秘密組織「地下鉄道」の隠れ家を引き受けて逃亡奴隷を1週間匿い、アフリカ系アメリカ人の奴隷廃止論者フレデリック・ダグラスと議論した。
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