パートナーシップの運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:24 UTC 版)
「ウォーレン・バフェット」の記事における「パートナーシップの運営」の解説
1954年にグレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマンに証券アナリストとして入社した。初任給は年間12,000ドル。ここでは後に著名な投資家になるウォルター・シュロスと共に働いた。 1956年にグレアムは引退し、会社は解散した。グレアムはバフェットを評価しており、1970年代の後半に『賢明なる投資家』の改訂を行っていたグレアムが入院した際に手伝いをバフェットに依頼した。バフェットは根本部分は変更せずにインフレや企業分析について改訂を提案したが、退院したグレアムは自分で改訂作業を行った。 当時バフェットの貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。バフェットは故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。1957年にさらに2つのパートナーシップを追加でつくり、合計5つパートナーシップを運営した。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、1957年にファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入した。この家にバフェットは現在も住んでいる。 1959年、後にバークシャーの副会長となるチャーリー・マンガーに出会い、2人はすぐに意気投合した。彼は会社の成功の要になる。1960年にはパートナーである1人の医師に、10,000ドルを投資する気がある医師を10人見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。1961年、パートナーシップの資産が数百万ドルを突破し、風車の製造会社に対して初めて100万ドル規模の投資をした。 1962年にニューヨークへ出かけ、古い友人から数十万ドルの資金を集めた。パートナーシップの資産が720万ドルになる。多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめ、最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更した。運営拠点をバフェットが「機能的で華美でない」と称するキューイット・プラザ(地元オマハの名士ピーター・キューイットの名にちなむ)に移す。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。 繊維業のバークシャー・ハサウェイが1株あたり8ドル未満で売られており、経営を改善すれば業績が好転すると考え、最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進めた。マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談すると、ハリー・ボトルのほうが良いと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、大きな利益を出す。 1963年、バークシャー・ハサウェイの筆頭株主になる。デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。翌年、アメリカン・エキスプレスが倒産の危機のある子会社に対して法的義務のない状態で資金を融通しようとしたスキャンダルによって同社の株価が暴落したときに、バフェットは解決可能な問題であると判断し、逆に株を買った。 1965年にウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。1株38セントで当時の時価総額の5%にあたる400万ドルを投資した。1株48セントになったときに売却したが、後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めている。1967年、バフェットのパートナーシップの資産が6500万ドルになる。バフェットはこのパートナーシップに初めて10セントの配当を出した1969年、バフェットはパートナーシップの解散を行った。
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