パートナーシップ解消後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/10 13:51 UTC 版)
「パウル・カッシーラー」の記事における「パートナーシップ解消後」の解説
1901年、パウルは、ブルーノとのパートナーシップを解消し、パウルは、画廊の経営とベルリン分離派の事務局長を続け、ブルーノは出版社を承継して1901年に雑誌『芸術と芸術家(ドイツ語版)』を創刊した。 1903年には、エドヴァルド・ムンク、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、エドガー・ドガ、クロード・モネのほか、最近評価されるようになったフランシスコ・デ・ゴヤ、エル・グレコの展示会を行った。しかし、保守的なメディアからは、反ユダヤ主義も加わって、攻撃を受けた。 1908年、パウル・カッシーラーは、自らの出版社(パウル・カッシーラー・フェルラーク)を開業し、フランツ・マルクの書簡集、マックス・フリートレンダー(英語版)の『初期ネーデルラント絵画』14巻などを出版した。 ゴッホの作品を相続した義妹ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの信頼を勝ち取って、ドイツでゴッホの作品を数多く販売することに成功した。1910年にはヨハンナとゴッホの手紙のドイツ語訳出版の契約を交わし、1914年にこれを出版した。 1910年から1912年にかけて、『パーン』誌を発行し、表現主義の美術・文学を支持した。 1910年、舞台女優のティラ・デュリュー(英語版)と結婚した。
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