バルフォア・レサール会談とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 07:19 UTC 版)
「スコット・ムラヴィヨフ協定」の記事における「バルフォア・レサール会談とその影響」の解説
1898年8月10日、第三次ソールズベリー侯爵内閣(英語版)の第一大蔵卿で庶民院の院内総務であったアーサー・バルフォアは、庶民院での演説で、中国分割において「勢力圏」という概念は否定されるべきものであり、代わりに「利益範囲」という概念を導入すべきことを主張した。これは当該範囲内において範囲設定国は他国企業を排除できる権利を有するが、しかし、通商の門戸は常に開放しなければならないというものでイギリス資本主義の利益に沿った門戸開放政策の主張だった。一方、ロシアはあくまで清国北東部を排他的な自国の独占市場、つまり勢力圏と考えており、この地を門戸開放するつもりはなかった。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:left;background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;text-align:center}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:center}} アーサー・バルフォア パーヴェル・レサール 8月12日、バルフォア首相代理はロンドンでロシア駐英代理公使のパーヴェル・ミハイロヴィチ・レサール(ロシア語版)と会談した。レサール代理公使は、この会談で2つの重要な提案を行った。それは、 清国政府の保証により香港上海銀行が京奉鉄道に借款を供与すること イギリスの長江流域の鉄道権益とロシアの満洲における鉄道権益とを相互に承認すること の2つであった。香港上海銀行としては、担保を取らずに「清国政府の保証」という曖昧かつ変則的な方法では借款供与できないはずであったが、一方で借款契約が不成立ということになれば従前投下した資本が回収できなくなる事態も考慮され、他に例のないイレギュラーな条件であることは承知のうえで、ともかくも借款を供与をすることに決めた。 バルフォアは、イギリス駐露大使(英語版)のチャールズ・スコットを通じてレサール提案への回答をロシア側に伝達した。その回答とは、まず、京奉鉄道の建設には香港上海銀行の借款を充当するが、同鉄道の管理は清国政府に委ねられることとし、清以外の国がこれを担保としないこと、そして、レサール提案の英露鉄道協定を前向きに検討することであった。すなわち、英露鉄道協定の成立と引きかえに京奉鉄道借款契約の承認をロシア側に求めたのであった。これを受けてロシア側は京奉鉄道借款契約の妨害を9月14日をもって収束させ、10月10日、香港上海銀行と清国鉄路総公司との間で京奉鉄道借款契約が結ばれ、これにより京奉鉄道はイギリスの権益として正式に認められた。 京奉鉄道はイギリスにとって、ロシアの鉄道による北京への進出を防止するうえで有益とみられ、また、イギリスの満洲貿易の中心である営口(牛荘)と首都北京が鉄路によって結び付けられるという点で重要であった。その背景にはロシアの建設した東清鉄道がシベリア鉄道のゲージと同じ5フィートの広軌であったのに対し、京奉鉄道はイギリスが標準軌に定めた4フィート8.5インチのゲージを使用しており、清国北東部にイギリスによる標準軌の鉄道圏を形成してきた経緯がある。そのため、ロシアが東清鉄道を延長して南下政策を採ろうとすれば、いきおいイギリスの鉄道圏と衝突することとなる。それだけにロシアもイギリスの京奉鉄道の建設に反発を強め、法的には租借条約追加第3条によって、技術的には主任技師をロシア人技師に交替させることによってイギリスの京奉鉄道建設を妨害してきたのである。 これに対し、イギリスはロシアの長江流域への進出が抑えられるのであれば、たとえ京奉鉄道借款契約の条件で譲歩を求められるのであっても、レサールの提案は検討に値するものであった。イギリスは、ドイツとの間にも同様の交換協定を成立させようと考えており、1898年9月2日、英独鉄道協定が成立した。したがって、英露間で同様の鉄道協定が結ばれるならば、イギリスは、長江流域を自国の「利益範囲」とすることについて、独露両国からの承認が得られることとなる。レサールの提案した英露協定には、シベリア鉄道建設や露清銀行への財政援助を続けてきたフランスも支持をあたえていることを考慮すると、主だった列強からの了解が得られるわけである。 ただし、英露交渉には英独交渉にはない経済問題が横たわっていた。軍事拠点である威海衛を除けばイギリスは山東半島に経済権益を有していなかったのに対し、満洲には営口を中心とする貿易活動があり、そこに配慮しなければならなかったのである。イギリスにとって満洲の権益は長江流域ほど価値の高いものではなかったにせよ、京奉鉄道とともに満洲貿易のすべてを放棄することはできなかった。イギリス首相ソールズベリー侯爵は英露鉄道協定が成立してもイギリスの満洲貿易には影響がないよう配慮することを約束したが、これは現地のイギリス商工会議所の不安を解消しようとしての発言だった。
※この「バルフォア・レサール会談とその影響」の解説は、「スコット・ムラヴィヨフ協定」の解説の一部です。
「バルフォア・レサール会談とその影響」を含む「スコット・ムラヴィヨフ協定」の記事については、「スコット・ムラヴィヨフ協定」の概要を参照ください。
- バルフォアレサール会談とその影響のページへのリンク