バルフォアの飴と鞭のアイルランド統治
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「バルフォアの飴と鞭のアイルランド統治」の解説
1887年3月にヒックス・ビーチがアイルランド担当大臣(英語版)を辞職すると、甥のアーサー・バルフォアをその後任に据えた。 バルフォアは騒がしくなるアイルランド民族運動を弾圧すべく、1887年8月にもアイルランド強圧法を制定し、アイルランド国民党の政治家を含めたアイルランド民族運動家を次々と逮捕していった。その弾圧の激しさからバルフォアは「血塗られたバルフォア(“Bloody Balfour”)」の異名を取るようになった。 一方で融和政策もとり、1890年にはバルフォアの主導で「バルフォア法」と呼ばれるアシュバーン法を拡張させたアイルランド小作人の土地購入を支援する法律が制定された。この法律によってアイルランド小作農に土地購入費の貸し付けを行う「土地委員会」の貸付限度額はそれまでの500万ポンドから3300万ポンドに大幅増額し、さらに現に小作人である者だけでなく、かつて小作人だった者も保護対象に拡大された。 ただ地主への代金支払いが現金ではなく土地債権に変更されるなど制度の複雑化により、申請数はアシュバーン法の時よりかえって減少した。結局バルフォア法は1896年の第3次ソールズベリー侯爵内閣期の時のアイルランド担当大臣ジェラルド・バルフォア(英語版)の主導で制度の簡潔化が図られ、それによって同法での申請数も増加していった。
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