バルト艦隊での勤務
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「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「バルト艦隊での勤務」の解説
その後も、「パーミャチ・アゾーヴァ」は現役に留まることになった。1900年には、艦隊装甲艦「インペラートル・アレクサンドル2世」、1 等巡洋艦「ミーニン」および「ナヒーモフ提督」とともに近代化改修が決定された。改修案は同年11月30日付けでボイラーを換装し、老朽化した排水系統の動脈管も取り替えることとなった。1901年、「パーミャチ・アゾーヴァ」は練習砲術分遣隊の旗艦として、観覧機動艦隊に参加した。 「パーミャチ・アゾーヴァ」の近代化改修について、海軍技術委員会は旧式化した薬莢を使用しない 203 mm 砲ならびに 152 mm 砲を 4 門の 45 口径 152 mm(ロシア語版) 薬莢砲へ換装し、従来の 7 門のオチキス式 47 mm 砲に 9 門を追加し、4 門の機関銃も装備して 37 mm 5 砲身砲のかわりに 37 mm 単砲身砲を装備することとした。また、新しい保管システムと吊り下げ式の給弾装置も装備することとされた。こうした近代化改修の結果、砲熕関係の重量は 383 t から 461 t に増加する見込みとなった。その一方で鋼鉄製装甲を厚み 102 mm のクルップ鋼に張り替えることで艦の重量は 108 t 軽減できるはずであり、さらに帆装と補助機関の廃止によって 50 t を稼ぐことができる見込みであった。従来の戦闘司令塔(ロシア語版)は砲撃指揮やそのための器具のためのスペースが不足していたため、より広いものに置き換えられる計画になっていた。新しい戦闘司令塔は、前檣の前に設置される予定であった。 武装関係以外に、動力装置にも改修が加えられる予定であった。「パーミャチ・アゾーヴァ」では従来、機関とボイラー区に動脈管が設置されていたが、これは不沈性(ロシア語版)において劣っていると考えられるようになっていた。近代化改修では、艦の生存性を高めるためにこれにかえて強力な自立性を持つ電動式排水遠心ポンプを設置する計画になっていた。また、木製の階段は鋼製に変更される予定であった。10 年間にわたって使用が続けられた煙管ボイラーは、近代的なベルヴィル式水管ボイラーに換装する計画であった。 ところが、「パーミャチ・アゾーヴァ」は当時の要求に照らして不十分な燃料搭載量と速力しか持っておらず、すでに巡洋任務には適さないという判定が下された。そのため、機関や船体の修理と小口径速射砲の増設工事を行っただけで練習砲術分遣隊に編入された。 日露戦争が始まると、「パーミャチ・アゾーヴァ」を指揮していた F・F・シリマン 1 佐官は自艦を第3太平洋艦隊に編入して極東へ派遣するよう提案した。しかし、艦は修理中で技術的に良くない状態であったため、派遣は見送られた。1904年の時点で、「パーミャチ・アゾーヴァ」はオーバーホールの最中であった。アドミラルティ造船所は「パーミャチ・アゾーヴァ」の老朽化したボイラーと蒸気配管系を換装し、新しいベルヴィル缶 18 基を据え付けた。また、機関も修理を受けた。従来の帆装を伴った 3 基のマストに替えて 2 本の軽量マストが設置され、艦からの機雷敷設管理設備も装備された。1906年にはオーバーホールを完了し、A・G・ロジーンスキイ 1 等佐官指揮下の水雷練習分遣隊に加わって強化軍事教練に合流した。
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