バルト海発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:55 UTC 版)
ストラボンはピュテアスが「ライン川を超えてスキタイまで」到達したと述べていることを紹介しているが、それを嘘だとしている。クラウディオス・プトレマイオスなどをはじめとする共和政末期からローマ帝国初期の地理学者らは、スキタイがヴィスワ川河口から東に住んでいると考えていた。したがってピュテアスが指しているのはバルト海の南岸一帯である。この文章が本当ならほかに解釈のしようがない。ペリプルスは航海日誌の一種であり、それを信じるならピュテアスはヴィスワ川河口まで到達したということになる。 大プリニウスの『博物誌』には次のように記されている。 ピュテアスによれば、ゲルマン人の民族 Gutones が Mentonomon という海洋の入り江沿いに住んでおり、その領域は6000スタディアにも及ぶという。その居住地域から1日の帆走で Abalus という島に到達し、その海岸には春に打ち寄せる波によってコハクが打ち上げられる。このコハクは海の産物であって、住民はこれを燃料として使い、近隣に住む Teutones に売っている。 "Gutones" は写本の際に Guttonibus および Guionibus を単純化した語と見られ、主格では Guttones または Guiones となる。ゴート族と解釈するのが主流である。Mentonomon(主格)は Metuonidis(属格)となっている写本もある。その語源についてはいくつか説があるが、広く受け入れられている説はない。コハクはその名で記されていたわけではなく、concreti maris purgamentum(凍結した海のくず)とされている。ディオドロスはこれを ēlektron、すなわちギリシア語のコハクだとした。大プリニウスが示しているのは古代の見方であり、当時コハクはバルト海地方からもたらされる貴重な石だったが、ピュテアスによればその高価な石をゲルマン人は燃料に使っているらしいという形で紹介している。 "Mentonomon" は aestuariumすなわち「入り江」または「広い河口」で6000スタディアの幅があるとされている。ヘロドトスの定めた1スタディオン600フィートで換算すると681マイルになる。この値はスカゲラク海峡からヴィスワ川河口までの距離に相当するが、6000スタディアという距離がどことどこの距離なのかはどの文献にも書かれていない。 それより前に大プリニウスは、スキタイの住む海岸から3日の帆走で Xenophon of Lampsacus が Balcia、ピュテアスが Basilia と呼ぶ大きな島に到達すると記している。これは一般に上述の Abalus と同一の島だと解釈されている。コハクが産出する島だとすると、ヘルゴラント島、シェラン島、グダニスク湾の海岸、サンビア半島、クルシュー・ラグーンが古来からコハクの産地として知られていた。なおこの一節は Germania という語が使われた初期の文献である。
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