バルト海の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 10:25 UTC 版)
「タンネ・オスト作戦」および「トルニオの戦い」も参照 1944年9月2日、フィンランドがドイツにフィンランドとソ連の停戦を通告すると、ドイツ軍はフィンランドの海運船を拿捕し始めた。しかし、フィンランドが全ての船にドイツへの航行禁止に踏み切り、ビルケ作戦の軍需品運び出しがほぼ停止したためフィンランド船を拿捕する政策は撤廃された。この政策が撤廃されると、フィンランドはドイツの撤退を早めるためにフィンランド船の使用を許可した。1944年9月14日、ドイツ軍はソビエトの海上輸送に対処するためだとしてフィンランドの水路にはじめて機雷を設置した。このときにはフィンランドとドイツが公開に戦争状態にあったわけではないため、ドイツ軍はフィンランドにその目的について警告を発した。 1944年9月15日、ドイツ海軍はタンネ・オスト作戦でゴーグラント島を奪取しようとした。フィンランドはすぐにフィンランド船を連合撤退行動から脱退させた。最後のドイツ護送船団は1944年9月21日にケミを発ち、潜水艦と(オーランド諸島の南で)ドイツの巡洋艦の護送を受けた。ゴーグラント島上陸の試みの後、フィンランドの沿岸砲台は命令を受けて9月15日にウト(英語版)でドイツの機雷敷設艦によるバルト海侵入を防いだ。しかし、翌9月16日には重巡洋艦プリンツ・オイゲンと駆逐艦5隻で構成されたドイツ海軍の派遣隊がウトに到着、フィンランドの152mm砲の射程外にあることを維持しつつ、砲撃すると脅すと、フィンランドは流血を避けるべく機雷敷設艦の通過を許可した。 1944年9月30日、フィンランド軍の上陸作戦が開始、フィンランドの輸送船3隻(ノルマ(Norma)、フリッツ・S(Fritz S)、ヘスペルス(Hesperus))が護衛艦のないままオウルを発ってトルニオに向かった。輸送船3隻は10月1日にトルニオに到着、妨害のないまま兵隊を上陸させた。第2波の船4隻が10月2日に、第3波の船3隻も1隻がドイツの急降下爆撃機により軽く損傷しただけで全ての兵士の上陸を成功させた。10月4日、悪天候によりフィンランドの上空援護用航空機がトルニオに到着できなかったため、輸送船の第4波がドイツのJu 87急降下爆撃機(シュトゥーカ)の攻撃を受け、港の隣にいるボレ(Bore IX)とマイニンキ(Maininki)が撃沈された。10月5日の第5波は陸上からの砲撃と空中の爆撃を両方とも受けたにもかかわらず、榴散弾による軽い損害しか受けなかった。第6波とともに到着した砲艦のハメーンマー(英語版)とウーシマー(英語版)、VMV級哨戒艦(英語版)のVMV 15とVMV 16はトルニオでドイツのFw 200によるHs 293を使用した攻撃に遭遇したがドイツの攻撃は失敗した。海軍艦艇が到着したことで、フィンランド軍は重装備を揚陸することができ、トルニオの戦いで大いに役に立った。 ノルウェーなどドイツの占領下にある港ではフィンランド船の海員が拘禁され、ドイツの潜水艦がフィンランドの民用艦を数隻撃沈した。ほかにはフィンランドの機雷敷設艦ロウヒ(英語版)もドイツの潜水艦に撃沈された。フィンランドとソ連の停戦により、ソ連海軍はフィンランド海岸を通ってドイツがフィンランド湾で設置した機雷原を素通りすることができた。その結果、フィンランドの多島海にいたソ連の潜水艦はバルト海南部におけるドイツの輸送船に攻撃することができた。
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