バルト海におけるフランスの作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:57 UTC 版)
「普仏戦争の海戦」の記事における「バルト海におけるフランスの作戦」の解説
今や「バルト戦隊」と呼ばれるようになったフランスのイギリス海峡艦隊はシェルブールに集結し、7月24日に北海に向けて北東へ出航した。ルイ・ブーエ=ウィヨメ(英語版)大将の指揮下、戦隊を構成したのは装甲フリゲート「シュルヴェヤン(英語版)」、「ゴロワーズ(英語版)」、「ギュイエンヌ(英語版)」、「フランドル(英語版)」、「オーション(英語版)」、装甲コルヴェット「テティス(英語版)」、「ジャンヌ・ダルク(英語版)」と通報艦「カサール」である。1870年8月2日、戦隊はコペンハーゲンに近いケーエ湾(英語版)に到着し、本来は中立であるデンマークの好意的な容認の下、司令部を設置する。 バルト戦隊と、来航中の地中海艦隊のいずれも同様に石炭不足に苦しんでいた。必要分はわずかながらデンマークや、イギリス領ヘルゴラント島から調達することが可能であったものの、大部分は数百海里も離れたダンケルクの貯蔵庫から運んで来なくてはいけなかったのである。 そのためフランスの艦艇は低速で航行したり、その存在のみで北ドイツ連邦の封鎖突破船を畏縮させようと何日も停泊したりして、石炭を節約する必要があった。しかし北ドイツ連邦の船が接近しても、それは石炭を消費する無駄な追跡に繋がるだけであった。8月12日、海軍大臣から命令を受けたブーエ提督は旗艦で士官とともにキール付近への上陸に備える。しかし浅瀬や沿岸部の良好な防備を背景に、彼らには北ドイツ沿岸の全体が上陸には不適であると思われた。クルップ社の沿岸砲の射程は、フランス側の艦砲の2倍であった。相応の兵力を欠いては、上陸作戦の実施はいずれにせよ不可能だったのである。 8月17日には通報艦「グリレ(ドイツ語版)」が分遣隊の砲艦を伴ってヒデンゼー島(英語版)、ドーンブッシュ(ドイツ語版)付近でフランスの装甲フリゲート3隻と通報艦1隻に遭遇し、初の突発的な戦闘が行われている。「グリレ」は砲撃を開始した後、ヒデンゼー島に向かって後退した。フランスの艦艇は海域の浅さから追撃を断念する。損害の報告は無かった。 1870年8月18日にはバルト海のドイツ領沿岸全域に対し、海上封鎖が宣言された。続いてフランスの艦艇は宣言を相応に履行し、ドイツの諸港を封鎖するべくその沿岸を哨戒する。その際、装甲フリゲート3隻と通報艦1隻から構成されるフランスの戦隊が8月22日にはダンツィヒ湾にも停泊した。ヴァイクマン大佐の指揮下、港湾を守備するべく配置されていたコルヴェット、「ニュンフェ」はこれを受けて敵戦隊に夜襲を敢行し、2回の片舷斉射を実施した。フランスの諸艦は抜錨し、応射しつつダンツィヒ湾から後退する。しかし、この砲戦は双方に損害を与えなかった。このように成果を挙げることなく、バルト戦隊は9月24日にはフランスへ撤収した。
※この「バルト海におけるフランスの作戦」の解説は、「普仏戦争の海戦」の解説の一部です。
「バルト海におけるフランスの作戦」を含む「普仏戦争の海戦」の記事については、「普仏戦争の海戦」の概要を参照ください。
- バルト海におけるフランスの作戦のページへのリンク