バルト諸国における文化遺産の破壊 (1945年–1989年)
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第二次世界大戦後ヤルタ会談の取り決めによって、ケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名されソ連に編入された。ポーランドは国境線を西にずらし、ダンツィヒ(グダニスク)を含むプロイセン地方全域(ソ連編入地域を除く)がポーランド領とされ、ドイツ国境はオーデル・ナイセ線まで西に後退した。そのため、戦後もバルト諸国地域およびポーランドに残留していたバルト・ドイツ人はオーデル川の西に追放(ドイツ人追放)され、その多くは西ドイツ地域に移住し、一部は東ドイツ地域に移住した。1948年にはカナダ総督ハロルド・アレグザンダー支援の下、カナダへの移住も行われた。アレグザンダーはかつて、1919年から翌1920年にかけてラトビア独立戦争(英語版)に参戦し、バルト・ドイツ人部隊を率いてソ連赤軍と戦ったことがあった。 50年間のバルト諸国占領によって、エストニアとラトビアにはエストニア・ソビエト社会主義共和国とラトビア・ソビエト社会主義共和国が成立した。ソ連の占領当局は過去数世紀にわたるドイツ民族の形跡を全て消滅させることを試み、数々のドイツ語で書かれた像、記念碑、建物または史跡が破壊された。1950年から翌1951年にかけて、エストニア最大のバルト・ドイツ人の墓地で、1774年から存在したコプリ墓地(英語版)とモーグ墓地(英語版)がソ連の占領当局により全て破壊された。また、1773年から存在するラトビア最大のグレート墓地(英語版)のほとんどの墓石もソ連により破壊された。
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