ハリウッド黄金期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:06 UTC 版)
第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。 スタジオ・システムにより、映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド黄金期」と呼ばれている。 なお、1940年代の終わりにスタジオ・システムは独占禁止法と、テレビの登場によって崩壊した。 また世界的な不況の中、トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流となる。アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年にはヘイズ・コードと呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。 1932年、イタリアでヴェネツィア国際映画祭が始まる。 同年、世界初の群像劇映画『グランド・ホテル』が公開。後に「グランドホテル方式」と名付けられる、その物語構成が高い評価を受け、第5回アカデミー賞 にて作品賞だけにノミネートされ、作品賞だけを受賞した史上唯一の作品となった。 1934年公開のフランク・キャプラの『或る夜の出来事』を皮切りに、アメリカでスクリューボール・コメディが流行。また、『或る夜の出来事』は、第7回アカデミー賞にて主要5部門でノミネートされ、史上初の5部門とも受賞した(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞)。この5部門を全て制することは、1975年の『カッコーの巣の上で』が成し遂げるまで出ないほどの大記録であった。 1935年、世界初のカラー映画ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』が公開。テクニカラーによる。 同年、ジャン・ルノワール監督の『トニ』が公開。徹底したリアリズムで描く本作の影響を受け、1930年代の末から1940年代にかけて、イタリアでネオレアリズモ運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていたルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニ等。 1937年、ディズニー制作の長編映画第1作目であり、世界初のカラー長編アニメーション映画となる『白雪姫』が公開。ロトスコープや、マルチプレーン・カメラの使用など、当時としては珍しいアニメーション技術を使用。桁外れの大ヒットを記録し、現在でもアニメ史に残る傑作として知られる。 1939年、ヴィクター・フレミング監督の『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』が公開。ジュディ・ガーランド主演のミュージカル映画である『オズの魔法使』は、当時一般的であったモノクロフィルムと、まだ極めて珍しかったカラーフィルムの両方で撮影され、その映像演出は高い評価を受けた。商業的には成功とは言えなかったものの、全時代を通じて史上最も多く鑑賞され、愛された映画だと考えられている。 一方で『風と共に去りぬ』は、400万ドル前後の製作費をかけて、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった。世界観客動員数歴代最多の20億人を記録している。
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