トマスの敗北と死、反乱の終結とは? わかりやすく解説

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トマスの敗北と死、反乱の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:20 UTC 版)

スラヴ人トマス」の記事における「トマスの敗北と死、反乱の終結」の解説

トマスコンスタンティノープル包囲再開することができなかった。恐らく彼の軍隊大きな損害苦しんでいたであろうことに加え、彼が金角湾残留させていた艦隊は、彼がブルガリア軍と戦うために不在にしている間にミカエル2世降伏していた。トマスコンスタンティノープルの西40キロメートルほどのディアバシス(Diabasis)の平原軍営設営し、そこで冬から春の初頭まで過ごした少数兵士が彼を見捨てたが、大多数はまだ忠誠保っていた。最終的に823年4月5月初頭ミカエル2世軍勢率いてトマス向けて進軍したミカエル2世将軍オルビアノスとカタキュラスが率い小アジアからの新たな軍勢伴っていた。トマス会敵目指し進軍した。彼は敵を罠にはめるため、まず士気が挫かれ敗走した見せかけ、それを追撃するためにミカエル2世の軍が隊列乱したところで向き変えて攻撃するという作戦用い予定であった。しかし、トマス軍隊長期にわたる戦い疲れ果てており、彼らの敗走真実のものとなった多くミカエル2世降伏し残りのものは近場要塞化された都市へと逃げ込んだトマス残存する兵の多くと共にアルカディオポリス(英語版)に安全を求めたトマス養子となっていたアナスタシオストマス兵士幾人と共にビゼ(英語版)に行き、他はパニオンとヘラクレアへと逃げたミカエル2世はアルカディオポリスを封鎖した攻撃仕掛けず守備兵消耗させて平和的に降伏させることを目指した。彼の戦略慈悲深さを表すプロパガンダの手段-ミカエル2世自身ルイ1世の手紙で「キリスト教徒の血を憐れむために」と自ら表明しているように-としての政治的な動機によっているが、それだけではなく年代記作家によればビザンツ都市城塞攻撃によって陥落し得るものであることをブルガリア人証明して見せてしまう恐れあったからだという。トマス熱狂的な信奉者たちは、小アジアミカエル2世忠実なオプシキオン(英語版地方とオプティマトン(英語版地方へのアラブ人襲撃自由にさせることでミカエル2世小アジア側に引き付けることを期待した。だが、ミカエル2世動かず封鎖続けたミカエル2世軍は溝を掘りアルカディオポリスのアクセス遮断した包囲されトマス軍は物資節約のために女子供追い払い続いて老人負傷者武器持てない者も追い出した封鎖から5ヶ月後、トマス部下たちは最終的に飢えた馬と彼らの持つ革を食べることを余儀なくされた。幾人かが城壁ロープ垂らしたり、そこから飛び降りて逃亡始めたトマスアナスタシオス救援求めるために封鎖が完全ではなかったビゼに使者送った。しかし823年10月実際に何等かの行動起こされる前に損耗しきったアルカディオポリスの兵士たち皇帝ミカエル2世恩赦引き換えに彼らの指導者トマス降伏させた。トマスロバに座るミカエル2世前に引き出され、鎖に繋がれた。トマスミカエル2世前に平伏英語版させられた。ミカエル2世トマスの首を踏みつけ両手両足切断して死体突き刺すように命じた処刑前にトマスは「御慈悲を、おお、真な皇帝陛下!」と叫んで助命求めたが、ミカエル2世自分の上官吏トマス裏取引をしていたかどうかを聞き質しただけであったトマス応答する前に、ロゴテティス=トゥ=ドロムゥ(英語版)(Logothetēs tou dromou、ほぼ宰相に相当)のヨハネス・ヘクサボリオス(John Hexaboulios)は反逆し敗れた者が何を主張しようとも聞くべきではないと助言しミカエル2世はこれに同意したトマス処刑はすぐに実行された。 ビゼの住民トマス運命聞くアナスタシオス降伏させた。彼はトマスと同じ運命辿った。パニオンとヘラクレアではトマス兵士たち824年2月地震まで持ちこたえた。この地震でパニオンの城壁深刻な損傷を受け、この都市降伏したヘラクレアでは被害は深刻ではなかったが、ミカエル2世都市の海側から軍を上陸させ、この都市降伏させた。小アジアトマス支持者たちは大部分平和裏降伏したが、テマ・キュビライオタイではストラテゴスのヨハネス・エチモス(John Echimos)によって鎮圧されるまで抵抗続いた。テマ・トラケシオイでは、トマス兵士たち山賊転じた。最も深刻な抵抗小アジア中央部で、コイレウス(Choireus)とガザレノス・コロネイアテス(Gazarenos Koloneiates)という二人将軍によって率いられたものであった。彼らは恐らくトマスにストラテゴイ(strategoi)として仕えていた。コイレウスはイコニオン北西のカバッラ(Kaballa)を拠点とし、ガザレノス・コロネイアテスはアンキュラ南西のサニアナ(Saniana)を拠点としていた。彼らはミカエル2世による恩赦とマギストロス(英語版)(magistros)という高い爵位与えるという提案拒否し、彼らの拠点からミカエル2世降った地方攻撃した。しかしすぐに、ミカエル2世代理人はこの二つ要塞住人反逆者に対して門を閉じるように説得した。コイレウスとコロネイアテスはその後アラブ人領土逃亡試みたが、途上ミカエル2世の軍に攻撃され捕らえられ十字架かけられた。

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