トマスの敗北と死、反乱の終結
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「スラヴ人トマス」の記事における「トマスの敗北と死、反乱の終結」の解説
トマスはコンスタンティノープルの包囲を再開することができなかった。恐らく彼の軍隊が大きな損害に苦しんでいたであろうことに加え、彼が金角湾に残留させていた艦隊は、彼がブルガリア軍と戦うために不在にしている間にミカエル2世に降伏していた。トマスはコンスタンティノープルの西40キロメートルほどのディアバシス(Diabasis)の平原に軍営を設営し、そこで冬から春の初頭まで過ごした。少数の兵士が彼を見捨てたが、大多数はまだ忠誠を保っていた。最終的に823年4月か5月初頭、ミカエル2世は軍勢を率いてトマスへ向けて進軍した。ミカエル2世は将軍オルビアノスとカタキュラスが率いる小アジアからの新たな軍勢を伴っていた。トマスも会敵を目指して進軍した。彼は敵を罠にはめるため、まず士気が挫かれ敗走したと見せかけ、それを追撃するためにミカエル2世の軍が隊列を乱したところで向きを変えて攻撃するという作戦を用いる予定であった。しかし、トマスの軍隊は長期にわたる戦いに疲れ果てており、彼らの敗走は真実のものとなった。多くはミカエル2世に降伏し、残りのものは近場の要塞化された都市へと逃げ込んだ。トマスは残存する兵の多くと共にアルカディオポリス(英語版)に安全を求めた。トマスの養子となっていたアナスタシオスはトマスの兵士の幾人かと共にビゼ(英語版)に行き、他はパニオンとヘラクレアへと逃げた。 ミカエル2世はアルカディオポリスを封鎖したが攻撃を仕掛けず、守備兵を消耗させて平和的に降伏させることを目指した。彼の戦略は慈悲深さを表すプロパガンダの手段-ミカエル2世自身がルイ1世への手紙で「キリスト教徒の血を憐れむために」と自ら表明しているように-としての政治的な動機によっているが、それだけではなく、年代記作家によればビザンツの都市の城塞が攻撃によって陥落し得るものであることをブルガリア人に証明して見せてしまう恐れがあったからだという。トマスの熱狂的な信奉者たちは、小アジアでミカエル2世に忠実なオプシキオン(英語版)地方とオプティマトン(英語版)地方へのアラブ人の襲撃を自由にさせることでミカエル2世を小アジア側に引き付けることを期待した。だが、ミカエル2世は動かず封鎖を続けた。ミカエル2世軍は溝を掘りアルカディオポリスのアクセスを遮断した。包囲されたトマス軍は物資の節約のために女子供を追い払い、続いて老人や負傷者、武器を持てない者も追い出した。封鎖から5ヶ月後、トマスの部下たちは最終的に飢えた馬と彼らの持つ革を食べることを余儀なくされた。幾人かが城壁にロープを垂らしたり、そこから飛び降りて逃亡を始めた。トマスはアナスタシオスの救援を求めるために封鎖が完全ではなかったビゼに使者を送った。しかし823年10月、実際に何等かの行動が起こされる前に、損耗しきったアルカディオポリスの兵士たちは皇帝ミカエル2世の恩赦と引き換えに彼らの指導者トマスを降伏させた。トマスはロバに座るミカエル2世の前に引き出され、鎖に繋がれた。トマスはミカエル2世の前に平伏(英語版)させられた。ミカエル2世はトマスの首を踏みつけ、両手両足を切断して死体を突き刺すように命じた。処刑前にトマスは「御慈悲を、おお、真なる皇帝陛下!」と叫んで助命を求めたが、ミカエル2世は自分の上級官吏がトマスと裏取引をしていたかどうかを聞き質しただけであった。トマスが応答する前に、ロゴテティス=トゥ=ドロムゥ(英語版)(Logothetēs tou dromou、ほぼ宰相に相当)のヨハネス・ヘクサボリオス(John Hexaboulios)は反逆し敗れた者が何を主張しようとも聞くべきではないと助言し、ミカエル2世はこれに同意した。トマスの処刑はすぐに実行された。 ビゼの住民はトマスの運命を聞くとアナスタシオスを降伏させた。彼はトマスと同じ運命を辿った。パニオンとヘラクレアではトマスの兵士たちが824年2月の地震まで持ちこたえた。この地震でパニオンの城壁は深刻な損傷を受け、この都市は降伏した。ヘラクレアでは被害は深刻ではなかったが、ミカエル2世は都市の海側から軍を上陸させ、この都市も降伏させた。小アジアのトマスの支持者たちは大部分が平和裏に降伏したが、テマ・キュビライオタイではストラテゴスのヨハネス・エチモス(John Echimos)によって鎮圧されるまで抵抗が続いた。テマ・トラケシオイでは、トマスの兵士たちは山賊に転じた。最も深刻な抵抗は小アジア中央部で、コイレウス(Choireus)とガザレノス・コロネイアテス(Gazarenos Koloneiates)という二人の将軍によって率いられたものであった。彼らは恐らくトマスにストラテゴイ(strategoi)として仕えていた。コイレウスはイコニオン北西のカバッラ(Kaballa)を拠点とし、ガザレノス・コロネイアテスはアンキュラの南西のサニアナ(Saniana)を拠点としていた。彼らはミカエル2世による恩赦とマギストロス(英語版)(magistros)という高い爵位を与えるという提案を拒否し、彼らの拠点からミカエル2世に降った地方を攻撃した。しかしすぐに、ミカエル2世の代理人はこの二つの要塞の住人に反逆者に対して門を閉じるように説得した。コイレウスとコロネイアテスはその後、アラブ人の領土に逃亡を試みたが、途上でミカエル2世の軍に攻撃され捕らえられて十字架にかけられた。
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