datum
「datum」の意味
「datum」は、単一の事実や情報、または分析や議論の基礎となるデータの一部を指す言葉である。複数形は「data」となり、これは複数の事実や情報をまとめたものを意味する。情報収集や研究において、datumは重要な要素であり、正確な結果や判断を導くためには、信頼性のあるdatumが必要である。「datum」の発音・読み方
「datum」の発音は、IPA表記では/ˈdeɪtəm/であり、IPAのカタカナ読みでは「デイタム」となる。日本人が発音するカタカナ英語では「データム」と読むことが一般的である。「datum」の定義を英語で解説
A datum is a single piece of information or fact, often used as a basis for analysis or discussion. In research and data collection, it is essential to have accurate and reliable data to draw valid conclusions and make informed decisions. The plural form of datum is ""data,"" which refers to a collection of multiple facts or pieces of information.「datum」の類語
「datum」に類似した言葉として、「fact」、「information」、「detail」、「statistic」などが挙げられる。これらの言葉は、それぞれ独自のニュアンスを持ちながら、事実や情報を指す言葉として使用される。「datum」に関連する用語・表現
「datum」に関連する用語や表現として、「data collection」(データ収集)、「data analysis」(データ分析)、「data processing」(データ処理)、「data set」(データセット)などがある。これらは、データや情報を扱う際に用いられる一般的な言葉である。「datum」の例文
1. The research is based on a large number of data collected over several years.(その研究は、数年間にわたって収集された多くのデータに基づいている。) 2. The datum was not reliable, so the conclusion drawn from it was questionable.(そのデータは信頼性がなかったため、それに基づく結論は疑わしいものだった。) 3. The survey provided valuable data for understanding consumer preferences.(その調査は、消費者の好みを理解するための貴重なデータを提供した。) 4. The company uses data analysis to make informed decisions about its marketing strategy.(その会社はデータ分析を用いて、マーケティング戦略に関する情報に基づいた決定を行っている。) 5. The data set included information on the participants' age, gender, and income.(そのデータセットには、参加者の年齢、性別、収入に関する情報が含まれていた。) 6. The accuracy of the data is crucial for the success of the project.(データの正確性は、プロジェクトの成功にとって重要である。) 7. The researchers used various methods to collect data on the subject.(研究者たちは、その主題に関するデータを収集するためにさまざまな方法を用いた。) 8. The data was presented in a clear and concise manner, making it easy to understand.(データは明確で簡潔な形で提示されており、理解しやすかった。) 9. The datum showed a significant correlation between the two variables.(そのデータは、2つの変数間に有意な相関があることを示していた。) 10. The data processing stage involved cleaning and organizing the raw data.(データ処理の段階では、生データのクリーニングと整理が行われた。)データム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/20 23:31 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() |
データム(英: Datum)は、データ(data)の単数形。論拠、与件、既知事項と同義。数学においては既知数ともいう[1]。
JIS規格では、物体を測定し、幾何公差を求めるための幾何学的基準をデータムと呼び、基準が直線の場合はデータム直線、基準が平面の場合はデータム平面という。また、測定対象物の形をデータム形体という[2]。
参考文献
- 研究社辞書部, ed (1960). “Datum”. 研究社新英和大辞典 (4 ed.). 東京: 研究社. pp. 444-445. NCID BN01869467.
脚注
- ^ 研究社辞書部 1960.
- ^ “JIS B 0022 幾何公差のためのデータム”. 日本工業標準調査会. 2012年10月19日閲覧。
ホアン・ホア・タム
ホアン・ホア・タム Hoàng Hoa Thám | |
---|---|
![]() | |
通称 | デ・タム、イェンテの虎 |
生年 | 1858年 |
生地 | 大南、興安省仙侶県 |
没年 | 1913年2月(54 - 55歳没) |
没地 |
![]() ![]() |
活動 | ベトナム独立運動 |
所属 | イエンテー軍、ズイタン会 |
ホアン・ホア・タム(ベトナム語:Hoàng Hoa Thám / 黃花探、嗣徳11年(1858年) - 維新7年1月5日(1913年2月10日))は、ベトナム東北部・バクザン省のイエンテー県を中心に25年にわたって繰り広げられたフランス植民地政府への抵抗運動であるイエンテー起義の指導者。「イエンテーの虎」(ベトナム語:Hùm thiêng Yên Thế / 𤞻天安世)と渾名された[1]。
名前について
本名はチュオン・ヴァン・タム(ベトナム語:Trương Văn Thám / 張文探)。ホアン・ホア・タムは自称の一つであり、反政府活動家としての通り名はデ・タム(ベトナム語:Đề Thám / 提探)であった[2]。彼は王朝には決して仕えることはなかったが、自らの地位を示すものとして「デードク」(ベトナム語:Đề đốc / 提督)の「デ」が入ったこの呼称を選んだ[3]。
生涯
フンイエン省ティエンルー県に生まれる。父のチュオン・ヴァン・タン(ベトナム語:Trương Văn Thận / 張文慎)と母のリュオン・チ・ミン(ベトナム語:Lương Thị Minh / 梁氏明)は、グエン・ヴァン・ナン(ベトナム語:Nguyễn Văn Nhân / 阮文雁)とノン・ヴァン・ヴァンが率いたソンタイ起義に参加して命を落としており、父方の叔父はその際に姓を「チュオン」(ベトナム語:Trương / 張)から「ホアン」(ベトナム語:Hoàng / 黃)に変えている。
起義の指導者として
19世紀後半のベトナムでは、フランス植民地政府に対するベトナム人による決起が多発していた。ベトナム語ではこのような反政府運動を「コイギア」(ベトナム語:khởi nghĩa / 起義)と呼ぶ。
タムは16歳でダイチャン起義(1870年 - 1875年)に参加、建福元年(1884年)3月にフランス軍がバクニン省を占拠すると、チャン・クァン・ロアン(ベトナム語:Trần Quang Loan / 陳光巒)が率いるバクニン起義に参加、咸宜元年(1885年)にはホアン・ディン・キンの率いるランザン起義(1882年 - 1888年)に参加、ホアン・ディン・キンの死後は兵を率いて「デ・ナム」(ベトナム語:Đề Nắm / 提楠)ことリュオン・ヴァン・ナム(ベトナム語:Lương Văn Nắm / 梁文楠)の率いる起義軍の麾下に入り、指導者の一人として名を馳せた。
成泰4年(1892年)4月にリュオン・ヴァン・ナムが裏切りで命を落とすと、タムはイエンテー起義の指導者となり、イエンテー県を拠点として多くの農民兵を集め、幾度もフランス軍を撃退した。有名な戦役となった成泰2年(1890年)12月のリュンホーチョイの戦い、成泰4年(1892年)2月のドンホムの戦いの後、フランス軍は成泰5年(1893年)から成泰7年(1895年)までにわたってイエンテー軍の鎮圧を試み、降伏させるために周囲の村落を破壊したが、タムは柔軟な戦術を駆使してフランス軍に重大な損害を与え、勝利を得ることに成功した。成泰9年(1897年)12月にフランスはイエンテー軍と一時的に和睦し、イエンテー軍はハノイにおけるフランス人の安全を、フランスはタムがイエンテー県の領主であることを認めた[1]。
成泰9年(1897年)から維新3年(1909年)の間もイエンテー軍は支配地の拡大に努め、ハノイ近郊にまで迫った。また、国境を越えて黒旗軍や孫文の革命党とも連携し、ファン・ボイ・チャウやファン・チュー・チンなどのベトナム独立運動の闘士とも積極的に関わり、成泰18年(1906年)にはズイタン会にも名を連ねた。
維新2年(1908年)にハノイ奪回のため、フランス軍の食料に毒を盛る事件を起こす(ハノイ投毒事件)。またハノイ駅、ハノイ中央郵便局、フランス軍の兵営、ドゥメール橋(現在のロンビエン橋)を爆破する作戦も計画していたが、これは密告により失敗した[1]。維新3年(1909年)1月にフランス軍は15,000人の兵力でイエンテー軍に対し総攻撃を仕掛けた。イエンテー軍はタイグエンに転戦し、タムダオ県などでフランス軍と戦った。維新7年(1913年)に壊滅。タムは三艘の船を乗っ取り国外逃亡を図ったが、後に裏切りによってフランス軍に捕縛され、2月10日にタイグエンで殺されたとされる。
後世の評価
ホー・チ・ミンもタムを深く尊敬していたため、ベトナム共産党においても歴史上の英雄として扱われている。ハノイのバディン区にはその事跡を記念した「ホアン・ホア・タム通り」がある他、ベトナム各地に「デ・タム通り」(ベトナム語:Đường Đề Thám / 塘提探)が存在する。
脚注
- ^ a b c 小倉、p271-273
- ^ 世界史手册 -1988 p707 黄花探〈 1845 — 1913 〕
- ^ Kiều Văn Giai thọai lịch sử Việt Nam - Volume 2 -- 2002 Page 1053 "HOÀNG HOA THÁM* Hoàng Hoa Thám (Đề Thám) quê phú Yên Thế tinh Bắc Giang. Sẵn mang ... Sau đó ông lại theo tòng sự Cai Kinh, lãnh tụ nghĩa quàn vũng Yên Thế, phủ Lạng Thương, được trọng dụng, phong Đề đốc."
参考文献
- 『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉。ISBN 4-12-101372-7。
- デー・タムのページへのリンク