テストパイロットへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 17:29 UTC 版)
「アメト=ハン・スルタン」の記事における「テストパイロットへ」の解説
ソ連軍司令部の命令により、大戦を生き残った全ての飛行エースは戦後モニーノの空軍士官学校(ロシア語版)で再教育を受ける事になった。しかし、最低限の中等教育しか受けてこなかったアメト=ハンにとっては厳しい要求で、最終的に中退許可を求め、1946年に受理された。飛行機の道を絶ってしばらくの間、鬱病に陥り、民間パイロットに転身する事すら出来なかった。そんな中、窮状を知ったアレクサンドル・ポクルィシュキン、アレクセイ・アレリューヒン、ウラジミール・ラヴリネンコフ(英語版)らかつての戦友は彼を励まし、ジューコフスキーの飛行調査研究所(英語版)の試験操縦士への道を勧めた。1947年2月に入社して以来研究所での地位が上がり、1952年に一級試験操縦士に達した。 1949年6月、イゴール・シェレストとともに、ソ連初の完全自動空中給油をツポレフTu-2で実施した。また同年、2人乗りのミコヤン・グレヴィッチ I-320全天候試作迎撃機(英語版)の初飛行をヤーコフ・ヴェルニコフとともに行った。1951年から1953年まで、セルゲイ・アノーキン(英語版)、フョードル・ブルテセフ、およびヴァシーリー・パブロフとともに、空対空ミサイルであるKS-1 コメート(英語版)の有人試験を行った。試験中、アメト=ハンはコメートの地上からの飛行(1951年1月4日)と、空母からの発艦(同年5月)をそれぞれ実施した最初のパイロットでもあった。ある試験飛行中、KS-1を切り離した後、エンジンが始動しないトラブルに見舞われるが、すぐにパラシュートで脱出せず再始動を繰り返し、最終的に再始動に成功、試作機の機体を守った。この行動に対して、テストパイロットチームのメンバー全員にソ連邦英雄金星章が授与されることになったが、当のアメト=ハンだけは三重英雄とはならず、代わりに赤旗勲章とスターリン国家賞の第2席が授与された。クリミア追放を承認した張本人であるスターリンが、この件でクリミア・タタール人がテストパイロットとなっていることを知り激怒したからであるとされる。 アメト=ハンが生涯行ったテスト飛行の多くは、軍用機の救命装置のテストが目的であり、死と隣り合わせの危険な任務であった。1958年11月12日、Sukhoi Su-7およびSu-9向けに設計された射出座席をテストするため、落下傘降下担当のヴァレリー・ゴロービンを乗せMiG-15を飛行中の事であった。排出装置発射のタイミングが早すぎたため機内で爆発が起こり、燃料タンクが破裂、ゴロービンの射出座席が固定された。操縦席は煙とガスで充満した上、ジェット燃料のケロシンも流れ込み視界が制限された。火の手が迫る中、ゴロービンとその指揮官が彼に航空機からの脱出を命じても、アメト=ハンは同志の放棄を拒否し、戦闘機の緊急着陸を成功させた。 また、ユーリイ・ガガーリンや他の多くの宇宙飛行士のため無重力状態訓練用に改造したTu-16を操縦したこともある。彼ら宇宙飛行士からは冗談と敬意を込めて「パカン」(Пахан、親分)と呼ばれていた。1961年9月23日、テストパイロットとしての功績により、ソ連名誉試験操縦士を授与された。生涯操縦した航空機は96種類、飛行時間数は4,237時間であった。
※この「テストパイロットへ」の解説は、「アメト=ハン・スルタン」の解説の一部です。
「テストパイロットへ」を含む「アメト=ハン・スルタン」の記事については、「アメト=ハン・スルタン」の概要を参照ください。
- テストパイロットへのページへのリンク